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【橋川文三の文学精神】 四 三島由紀夫『鏡子の家』

2014年06月17日 06時00分00秒 | ★第二篇 橋川文三の文学精神1~5

  【橋川文三の文学精神】 第4回         内容目次@本文リンク



四 三島由紀夫『鏡子の家』

 

――三島の資質は、小説より戯曲に向いていた。『鏡子の家』が批評家たちに酷評されたのは、戯曲の資質が前面に出すぎたためだった。(猪瀬直樹著作集二巻『ペルソナ 三島由紀夫伝』289頁)

   批評家たちが「酷評」した『鏡子の家』を橋川文三が、そして橋川文三だけが、ある独自の観点から「評価」した。この「評価」に三島由紀夫は心打たれた。そしてその後の長く続く三島と橋川の文学精神の交流が始まった。ここに戦後の思想史に例をみない真の独創的な「対話的関係」が開始されたのである。

「三島の資質は、小説より戯曲に向いていた」という評価に関して、私は猪瀬の意見に完全に同意する。三島の戯曲の代表作としてふつう挙げられるのは『わが友ヒトラー』と『サド公爵夫人』であるが、『わが友ヒトラー』に関しては三島自身の朗読が残されている(三島由紀夫全集決定版・第41巻)。『サド公爵夫人』については新妻聖子がサド公爵夫人を演じた極上の公演がネット上で公開されており視聴可能である(2013年10月現在)。

『豊饒の海』で三島の才能は出し尽くされたのではない。三島の自死によって失われたものをひとつだけ挙げよといわれたなら、それは三島の戯曲的才能であったと私は答えるだろう。

   橋川文三が『鏡子の家』を論じた「若い世代と戦後精神」は、『東京新聞』昭和三十四年十一月十一日~十三日付夕刊に連載されたものである。この三回の連載において橋川文三は、まず最初に三島由紀夫を論じ、大いに評価した後で、続く二回の連載の結論として石原慎太郎と大江健三郎の両者を否定的に語っている。この対比は鮮やかである。「若い世代と戦後精神」の結語を見てみよう。この結語は予言的であり、いまでもその有効性を失っていないほどである。

――大江や石原が時代の「壁」の背後にある歴史への感覚をもちえない限り、かれらはただ「時代の子」として、ある好ましい評判をかちえてゆくであろう。つまり、時代を動かすのではなく、押し流されてゆくであろう。なぜなら、かれらは、絶望的なまでに「われらの時代」にとらわれ、惑溺しているからである。

   橋川文三は「若い世代と戦後精神」で大江や石原をこのように酷評したのだが、批評家たちが口を揃えて一斉に酷評した三島由紀夫の『鏡子の家』は、これを諸手を挙げて絶賛したのである。なぜどのような意味において、『鏡子の家』は傑作でありうるのか。そこには橋川文三の歴史への感覚が十全に示されていた。橋川の『鏡子の家』評価を少し長くなるが大事な部分なので全文を引いておく。

――ここに描かれている四人の青年たちと鏡子とは、ある秘められた存在の秩序に属する倒錯的な疎外者の結社を構成している。かれらのいつき祭るもの、それはあの「廃墟」のイメージである。三島がどこかで「凶暴な抒情的一時期」とよんだあの季節のことである。「この世界が瓦礫と断片から成立っていると信じられたあの無限に快活な、無限に自由な少年期」――それがこの仲間たちを結びつける共通の秘蹟であった。

 じっさいあの「廃墟」の季節は、われわれ日本人にとって初めて与えられた稀有の時間であった。ぼくらがいかなる歴史像をいだくにせよ、その中にあの一時期を上手にはめこむことは思いもよらないような、不思議に超歴史的で、永遠的な要素がそこにはあった。そこだけがあらゆる歴史の意味を喪っており、いつでも、随時に現在の中へよびおこすことができるようなほとんど呪術的な意味をさえおびた一時期であった。ぼくらは、その時期をよびおこすことによって、たとえば現在の堂々たる高層建築や高級車を、みるみるうちに一片の瓦礫に変えてしまうこともできるように思ったのである。それはあのあいまいな歴史過程の一区分ではなかった。それはほとんど一種の神話過程ともいいうる一時期であった。そのせいか、ぼくには戦前のことよりも、戦後数年の記憶のほうが、はるかに遠い時代のことのように錯覚されるのだが、これはぼくだけのことであろうか?

 ともあれ、そのようにあの戦後を感じとった人間の眼には、いわゆる「戦後の終焉」と、それにともなう正常な社会過程の復帰とは、かえって、ある不可解で異様なものに見えたということは十分に理由のあることである。三島がどこかの座談会で語っていたように、戦争も、その「廃墟」も消失し、不在化したこの平和の時期には、どこか「異常」でうろんなところがあるという感覚は、ぼくには痛切な共感をさそうのである。いつ、いかなる理由があってそれはそうなったのかーーこういう疑惑はずっとぼくらの心の片すみにひそんでいるのではないだろうか。

 三島はさきの引用文のあとの方で、「それに比べると、一九五五年という時代、一九五四年という時代、こういう時代と一緒に寝るまでにいたらない」と記している。つまり、そこでは「神話」と「秘蹟」の時代はおわり、時代へのメタヒストリックな共感は絶たれ、あいまいで心を許せない日常性というあの反動過程が始まるのであり、三島のように「廃墟」のイメージを礼拝したものたちは「異端」として「孤立と禁欲」の境涯においやられるのである。「鏡子の家」の繁栄と没落の過程は、まさに戦後の終えん過程にかさなっており、その終えんのための鎮魂歌のような意味を、この作品は含んでいる。

 

   以上が橋川文三の『鏡子の家』評価の全文である。これにすぐ続けて、橋川にとって三島はいかなる存在であったのか、また今後ありうるのかをここで簡潔に述べているのだが、これまたその後の三島と橋川の思想的交流の全過程を予言する貴重な証言となっていて興味深い。

――元来、ぼくは、三島の作品の中に、文学を読むという関心はあまりなかった。この日本ロマン派の直系だか傍系だかの作家の作品のなかに、ぼくはあの血なまぐさい「戦争」のイメージと、その変質過程に生じるさまざまな精神的発光現象のごときものを感じとり、それを戦中=戦後精神史のドキュメントとして記録することに関心をいだいてきた。

   そして橋川はこの文章を「『鏡子の家』は、その意味で、ぼくにとってたいへん便利な索引つきのライブラリーのようなものである」と結んでいる。

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■著者より

●「橋川文三の文学精神」は6月14日より28日まで全15回連載します。
●本文中で論じた三島の戯曲『サド公爵夫人』はWEBで公開されており現在も視聴可能です。
【サド公爵夫人 前編】


【サド公爵夫人 後編】


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