なぎさ用渡辺松男研究2の17(2019年1月実施)
Ⅱ【膨らみて浮け】『泡宇宙の蛙』(1999年)P85~
参加者:泉真帆、M・I、K・O、岡東和子、A・K、T・S、
曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放
127 砂利粒のサラリーマンは砂利のなかがんばっていると妻にも言わず
(レポート)
サラリーマンは社会の歯車のひとつとよくいわれるが、一首では小さな砂利にすぎない自分(サラリーマン)と詠む。石ではなく砕けた砂利粒にすぎない自分がそれでもがんばっている、しかしそんな健気なことは妻には言わないのだ。照れくさいのか、男の矜持か。(真帆)
(当日意見)
★サラリーマンの位置づけのようなものがよく出ていると思います。がんばってるんだけど、奥さ
んにはそんなことは言わない。照れくさいのでしょうか、空元気なのでしょうか、妻の立場とし
てはいろいろ考えさせられます。(岡東)
★砂利粒のざらざらとした音感がこの歌によく合っていると思います。妻についてはたまたまもっ
てきただけと思います。砂利粒のような自分が精一杯頑張っていることがいいたい。(慧子)
★砂利粒のようなサラリーマンというのは誰でも持っている感覚で、いい歌とは思わない。天下の
渡辺さんに対して申し訳ないけど、渡辺さんがわざわざ作る必要はない歌だと思う。(A・K)
★自分を砂とか岩に例える歌はたくさんあるけど、砂利というのは砂より少し大きい。その砂利に
例えられたのは非凡だと思います。砂利の微妙な隙間感とか、砂だと区別が付かないけど砂利だ
と見分けが付くというか、そこが非凡です、松男さんだから発見できた。下の句は平凡だし考え
どころだけれど、上の句を目立たせる為には仕方がないのかなあとか。(K・O)
★私はだいたいA・Kさんの意見と同じだったので、K・Oさんの意見を、ああそういう読み方も
あるのかと驚いて聞きました。慧子さんは妻は付け足しとおっしゃいましたが、そんな事は無く
て大切なのだろうと思いますが、それは後で述べます。ところで、「妻にも」ってあるのですが
、 「にも」って何でしょう?勢いですか。妻以外にそんなことをいう対象って無いと思うのですが。
親や子供に言うわけもないし、まして同僚になんか言わないし。でも、出世競争の中で、トップ
に立とうとは思わないまでも周囲には負けたくないという思いはある、それで頑張っている、そ
ういう自分に含羞を感じているのでしょう。私がこの歌を読んでいちばんびっくりしたのは「妻」
という言葉で、この言葉は第一歌集にもほとんど出てこない。(昔、誰を対象にうたっているの
か円グラフで描いたことがあるので、それを探してみます。余談ですけど、松男さん対象の評論
にこのグラフを付けたら、こんなのは要らないって、小高賢さんにつっかえされましたが(笑)
(鹿取)
(後日意見)
家族の誰をうたっているかの円グラフは2002年に作ったもの。文中に取り込もうとしたが私に技術がなくてできないので、歪んでいるが写真で挿入する。『寒気氾濫』(1997年刊)『泡宇宙の蛙』(1999年刊)『歩く仏像』(2002年刊)の3冊について調べているが、妻がないのが分かるだろう。『泡宇宙の蛙』でもこの1首だけかもしれない。ただし既に鑑賞した「少し哲学」の一連では7首中6首に「配偶者」という語が使われている。
妻が読まれなかったのは、身近過ぎたからだろうか?後年、妻が病気になり、介護し、亡くなられた後にはたくさんの妻の歌が詠まれることになるのだけれど。
ただし、渡辺松男の家族詠はいわゆる事実に即した家族詠とは微妙に異なるので、全てが実在の家族を反映したものではないようなので、その点はお断りしておく。(鹿取)
最初のは、歌集に出てくる表記をそのまま用いたグラフ。



次は、母、妣などをまとめて「母」とするなど単純化したもの。%がよく分かる。すなわち『寒気氾濫』では父が圧倒的に多く71%、『泡宇宙の蛙』は母と妣などの系列で67%と過半数を超え、『歩く仏像』では父の系列46%と母・妣系列42%とが拮抗している。
%がよく分かる。
│寒気氾濫 │ │
│ │ │
│父 │15 │
│弟 │3 │
│母 │2 │
│父母 │1 │
│泡宇宙の蛙 │ │
│ │ │
│母 │42 │
│父 │9 │
│祖父 │5 │
│祖母 │4 │
│姉 │3 │
│歩く仏像 │ │
│ │ │
│父 │22 │
│母 │20 │
│祖母 │4 │
│祖父 │2 │

Ⅱ【膨らみて浮け】『泡宇宙の蛙』(1999年)P85~
参加者:泉真帆、M・I、K・O、岡東和子、A・K、T・S、
曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放
127 砂利粒のサラリーマンは砂利のなかがんばっていると妻にも言わず
(レポート)
サラリーマンは社会の歯車のひとつとよくいわれるが、一首では小さな砂利にすぎない自分(サラリーマン)と詠む。石ではなく砕けた砂利粒にすぎない自分がそれでもがんばっている、しかしそんな健気なことは妻には言わないのだ。照れくさいのか、男の矜持か。(真帆)
(当日意見)
★サラリーマンの位置づけのようなものがよく出ていると思います。がんばってるんだけど、奥さ
んにはそんなことは言わない。照れくさいのでしょうか、空元気なのでしょうか、妻の立場とし
てはいろいろ考えさせられます。(岡東)
★砂利粒のざらざらとした音感がこの歌によく合っていると思います。妻についてはたまたまもっ
てきただけと思います。砂利粒のような自分が精一杯頑張っていることがいいたい。(慧子)
★砂利粒のようなサラリーマンというのは誰でも持っている感覚で、いい歌とは思わない。天下の
渡辺さんに対して申し訳ないけど、渡辺さんがわざわざ作る必要はない歌だと思う。(A・K)
★自分を砂とか岩に例える歌はたくさんあるけど、砂利というのは砂より少し大きい。その砂利に
例えられたのは非凡だと思います。砂利の微妙な隙間感とか、砂だと区別が付かないけど砂利だ
と見分けが付くというか、そこが非凡です、松男さんだから発見できた。下の句は平凡だし考え
どころだけれど、上の句を目立たせる為には仕方がないのかなあとか。(K・O)
★私はだいたいA・Kさんの意見と同じだったので、K・Oさんの意見を、ああそういう読み方も
あるのかと驚いて聞きました。慧子さんは妻は付け足しとおっしゃいましたが、そんな事は無く
て大切なのだろうと思いますが、それは後で述べます。ところで、「妻にも」ってあるのですが
、 「にも」って何でしょう?勢いですか。妻以外にそんなことをいう対象って無いと思うのですが。
親や子供に言うわけもないし、まして同僚になんか言わないし。でも、出世競争の中で、トップ
に立とうとは思わないまでも周囲には負けたくないという思いはある、それで頑張っている、そ
ういう自分に含羞を感じているのでしょう。私がこの歌を読んでいちばんびっくりしたのは「妻」
という言葉で、この言葉は第一歌集にもほとんど出てこない。(昔、誰を対象にうたっているの
か円グラフで描いたことがあるので、それを探してみます。余談ですけど、松男さん対象の評論
にこのグラフを付けたら、こんなのは要らないって、小高賢さんにつっかえされましたが(笑)
(鹿取)
(後日意見)
家族の誰をうたっているかの円グラフは2002年に作ったもの。文中に取り込もうとしたが私に技術がなくてできないので、歪んでいるが写真で挿入する。『寒気氾濫』(1997年刊)『泡宇宙の蛙』(1999年刊)『歩く仏像』(2002年刊)の3冊について調べているが、妻がないのが分かるだろう。『泡宇宙の蛙』でもこの1首だけかもしれない。ただし既に鑑賞した「少し哲学」の一連では7首中6首に「配偶者」という語が使われている。
妻が読まれなかったのは、身近過ぎたからだろうか?後年、妻が病気になり、介護し、亡くなられた後にはたくさんの妻の歌が詠まれることになるのだけれど。
ただし、渡辺松男の家族詠はいわゆる事実に即した家族詠とは微妙に異なるので、全てが実在の家族を反映したものではないようなので、その点はお断りしておく。(鹿取)
最初のは、歌集に出てくる表記をそのまま用いたグラフ。



次は、母、妣などをまとめて「母」とするなど単純化したもの。%がよく分かる。すなわち『寒気氾濫』では父が圧倒的に多く71%、『泡宇宙の蛙』は母と妣などの系列で67%と過半数を超え、『歩く仏像』では父の系列46%と母・妣系列42%とが拮抗している。
%がよく分かる。
│寒気氾濫 │ │
│ │ │
│父 │15 │
│弟 │3 │
│母 │2 │
│父母 │1 │

│泡宇宙の蛙 │ │
│ │ │
│母 │42 │
│父 │9 │
│祖父 │5 │
│祖母 │4 │
│姉 │3 │

│歩く仏像 │ │
│ │ │
│父 │22 │
│母 │20 │
│祖母 │4 │
│祖父 │2 │
