ブログ版渡辺松男研究⑨(13年10月)
【からーん】『寒気氾濫』(1997年)33頁~
参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター 鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
74 廃坑のごとくに耳の穴はある老祖父はただ笑むばかりなり
(レポート)
耳が遠くなり人の話について行けなくなったのだろう、老祖父はただ微笑むばかりの好好爺である。「廃坑のごとくに」耳の穴はある、という比喩が的確である。廃坑は、むろん初めから廃坑だったわけではなく、鉱山や炭鉱で盛んに人や物が行き交い、にぎわった過去を背負った言葉である。そのように老祖父の耳も、元気な頃は活発に働いて、耳の穴を行き交う様々な音や声を聞きわけていたのである。しかし、高齢の今は、行き交うものも少なくなり、聞きわける力も衰えて、「廃坑」となった坑道のようにがらんどうで、ひっそりとした「耳の穴」である。(鈴木)
(当日意見)
★「ただ笑むばかりなり」に作者の思いがあるのが伝わってきますね。(崎尾)
★耳が遠くなって人の言葉についていけなくなる寂しさがよく出ている。(曽我)
★渡辺さん歌の中では、働いて食べて寝る、無駄なことはしゃべらない、鰥夫(やもめ)
で、根っからの生活者としておじいさんを造形していて、そのおじいさん像がとても
好きです。ちょっとこれは違う視点で、寂しいですが、「廃坑」が比喩としてすばら
しいです。鈴木さんの解釈で、その点がよく分かります。(鹿取)
★老祖父は幾つくらいなんだろうね。昔は隠居という制度があったから、何かゆったり
した感じがする。(鈴木)
(後日意見)
同じ『寒気氾濫』に耳を歌った次のような歌がある。掲出歌とは全く違って、ナイーブな相聞の匂いがするような歌だ。(鹿取)
はずかしさのまんなかにある耳の穴卯月はつかな風にふるえる
【からーん】『寒気氾濫』(1997年)33頁~
参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター 鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
74 廃坑のごとくに耳の穴はある老祖父はただ笑むばかりなり
(レポート)
耳が遠くなり人の話について行けなくなったのだろう、老祖父はただ微笑むばかりの好好爺である。「廃坑のごとくに」耳の穴はある、という比喩が的確である。廃坑は、むろん初めから廃坑だったわけではなく、鉱山や炭鉱で盛んに人や物が行き交い、にぎわった過去を背負った言葉である。そのように老祖父の耳も、元気な頃は活発に働いて、耳の穴を行き交う様々な音や声を聞きわけていたのである。しかし、高齢の今は、行き交うものも少なくなり、聞きわける力も衰えて、「廃坑」となった坑道のようにがらんどうで、ひっそりとした「耳の穴」である。(鈴木)
(当日意見)
★「ただ笑むばかりなり」に作者の思いがあるのが伝わってきますね。(崎尾)
★耳が遠くなって人の言葉についていけなくなる寂しさがよく出ている。(曽我)
★渡辺さん歌の中では、働いて食べて寝る、無駄なことはしゃべらない、鰥夫(やもめ)
で、根っからの生活者としておじいさんを造形していて、そのおじいさん像がとても
好きです。ちょっとこれは違う視点で、寂しいですが、「廃坑」が比喩としてすばら
しいです。鈴木さんの解釈で、その点がよく分かります。(鹿取)
★老祖父は幾つくらいなんだろうね。昔は隠居という制度があったから、何かゆったり
した感じがする。(鈴木)
(後日意見)
同じ『寒気氾濫』に耳を歌った次のような歌がある。掲出歌とは全く違って、ナイーブな相聞の匂いがするような歌だ。(鹿取)
はずかしさのまんなかにある耳の穴卯月はつかな風にふるえる