ブログ版渡辺松男研究⑨(13年10月)
【からーん】『寒気氾濫』(1997年)33頁~
参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター 鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
81 ドッペルゲンガー花木祭に光(かげ)を曳き知らざれば笑みてすれちがいたり
(レポート)
ドッペルゲンガー(二重身)には、次の三つがあるそうだ。①自分とそっくりの分身、②自分がもうひとりの自分を見る自己像幻視、③同一人物が同時に複数の場所にあらわれる現象。芥川龍之介は、帝劇と銀座で自分を見かけたと言っているから、たぶんこれは①のケースだろう。それに対して本歌では「知らざれば」とある。すれ違った人をもうひとりの自分(姿かたちが似ていないので知らない人だが確実に自分だ)のように幻視した②のケースだろうか。あるいは二重身の存在はありそうだがまだ出会ったことがないという意味か。いずれにしても「光を曳き」すれちがう映像的なシーンが、ドッペルゲンガーをより一層リアルに感じさせる。(鈴木)
(意見)
★渡辺さんが芥川龍之介のようにドッペルゲンガーを体験したかどうかは分からないけ
れど、ドッペルゲンガーそのものを歌にしたかったんだろう。(鈴木)
★賑やかな花木祭ですれちがった人が、あああれは自分だったっていうのかなあ。その
時は自分と知らなかったからほほえんですれちがったんだけどと。何でその時分から
なくて後でわかったんだろう?(鹿取)
★どの程度ドッペルゲンガーとして思ったのか、よく分からない。自分とそっくりだっ
たら出会ったとき分かるよねえ。(鈴木)
★不思議な歌で、魅力的な歌ですねえ。精神の病気で見えるということはないんですか?
(鹿取)
★レビー小体が侵されると幻視が起こることがあるらしい。もちろん自分ではなく、知
らない人が部屋にいるというような。でもなぜ見えるか本人が納得すれば見えても気
にならなくなるらしい。(鈴木)
★まあ、ドッペルゲンガーを作者が体験したかどうかはどっちでもよくて、この歌謎は
あるけど明るいですよね。花木祭でさまざまな色がイメージできるし。(鹿取)
(追記)
渡辺さんには、掲出歌の他にもドッペルゲンガーを扱った歌がある。
わたしはわたしと擦れ違ったから明日死ぬ 空中にある青い眼球 『歩く仏像』
そこで不確かな情報源ではあるが、ネットでドッペルゲンガーを調べてみた。レポーターのあげている3種類に分類すると、渡辺さんの歌は2首とも「自分がもうひとりの自分を見る現象」(=自己像幻視)のタイプか。自己像幻視はボディーイメージを司る脳の分野に腫瘍ができると起こることがあるらしい。古くから「自分に出会ったらまもなく死ぬ」と恐れられていたが、死因は脳腫瘍だったのかもしれない。また偏頭痛でも自己像幻視は起きるそうなので、必ずしも自分に会ったら死ぬわけでもない。芥川は頭痛持ちだったからドッペルゲンガーが起きたのではないかと考えられているようだ。しかし19世紀のフランス人の教師サジェという人は、教室と外の花壇に同時にいるのを40人以上もの生徒によって目撃されたそうなので、脳腫瘍や偏頭痛では説明がつかないケースもまれにあるらしい。
ちなみに私もかつて入眠時幻覚を毎日経験したし、今でも頭が疲れたり、眠る時間が遅く(およそ午前2時以降)になると入眠時幻覚をみることがある。自分の寝ている枕元へ、だいたい人間が来るのだが、来るのは気配で分かるし、締め切ったドアや窓からすーと入ってくる。そういう時は息づかいから衣擦れの音までものすごくリアルに聞こえる。
目が覚めている時にも、まれに幻覚を見ることがある。去年(2012年)のお正月の4日、自宅近くのバス停の椅子に腰掛けていた。バスを待っているのは私ひとりだった。しばらくすると椅子ががたがた動き始め、椅子に置いた荷物が上下し、地面が波打った。立ち上がって側のポールに掴まった。震度5くらいはあると思った。友人と食事の約束をしていて都心に出る予定だったが、これでは交通機関も麻痺するだろうし引き返そうかなと考えているとき、バスがやってきた。乗り込んでも誰も動揺している様子がない。最寄りの電車駅に着いても平常通り電車は動いている。都心に出て友人に会い、1時間ほど前強い地震があったわねえ、と言ったが地震なんってなかったよと言われた。恐くてもう他の人には言えなかった。脳ドックを年1回受診しているが、その後も異状はない。あまりにもリアルで鮮明だった〈幻覚〉はどうして起こったのだろう。東日本大地震の余震が頻発していた頃で、〈幻覚〉の2日ほど前にもデパートで買い物中に震度4の揺れを経験した。また起こるのではという恐れが〈幻覚〉をみさせたのだろうか。でも確かにがたがたと椅子の揺れる音を聞いたし、地面が波打っているのをしっかり見たのに。
幻覚ではないが、二十歳の頃、死んでいる自分を他の家族と一緒に眺めている夢をみた。夢の中でそれほど恐いとは思わなかった。目覚めて考えてみると夢の家も、出てきた家族の顔も見たことのないものだった。四十年以上経ったがこの夢はまだ覚えている。でも、渡辺松男の歌のように生きている自分自身にはまだ会ったことがない。(鹿取)
床(とこ)の間(ま)に祭られてあるわが首をうつつならねば泣いて見てゐし
『植物祭』前川佐美雄
【からーん】『寒気氾濫』(1997年)33頁~
参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター 鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
81 ドッペルゲンガー花木祭に光(かげ)を曳き知らざれば笑みてすれちがいたり
(レポート)
ドッペルゲンガー(二重身)には、次の三つがあるそうだ。①自分とそっくりの分身、②自分がもうひとりの自分を見る自己像幻視、③同一人物が同時に複数の場所にあらわれる現象。芥川龍之介は、帝劇と銀座で自分を見かけたと言っているから、たぶんこれは①のケースだろう。それに対して本歌では「知らざれば」とある。すれ違った人をもうひとりの自分(姿かたちが似ていないので知らない人だが確実に自分だ)のように幻視した②のケースだろうか。あるいは二重身の存在はありそうだがまだ出会ったことがないという意味か。いずれにしても「光を曳き」すれちがう映像的なシーンが、ドッペルゲンガーをより一層リアルに感じさせる。(鈴木)
(意見)
★渡辺さんが芥川龍之介のようにドッペルゲンガーを体験したかどうかは分からないけ
れど、ドッペルゲンガーそのものを歌にしたかったんだろう。(鈴木)
★賑やかな花木祭ですれちがった人が、あああれは自分だったっていうのかなあ。その
時は自分と知らなかったからほほえんですれちがったんだけどと。何でその時分から
なくて後でわかったんだろう?(鹿取)
★どの程度ドッペルゲンガーとして思ったのか、よく分からない。自分とそっくりだっ
たら出会ったとき分かるよねえ。(鈴木)
★不思議な歌で、魅力的な歌ですねえ。精神の病気で見えるということはないんですか?
(鹿取)
★レビー小体が侵されると幻視が起こることがあるらしい。もちろん自分ではなく、知
らない人が部屋にいるというような。でもなぜ見えるか本人が納得すれば見えても気
にならなくなるらしい。(鈴木)
★まあ、ドッペルゲンガーを作者が体験したかどうかはどっちでもよくて、この歌謎は
あるけど明るいですよね。花木祭でさまざまな色がイメージできるし。(鹿取)
(追記)
渡辺さんには、掲出歌の他にもドッペルゲンガーを扱った歌がある。
わたしはわたしと擦れ違ったから明日死ぬ 空中にある青い眼球 『歩く仏像』
そこで不確かな情報源ではあるが、ネットでドッペルゲンガーを調べてみた。レポーターのあげている3種類に分類すると、渡辺さんの歌は2首とも「自分がもうひとりの自分を見る現象」(=自己像幻視)のタイプか。自己像幻視はボディーイメージを司る脳の分野に腫瘍ができると起こることがあるらしい。古くから「自分に出会ったらまもなく死ぬ」と恐れられていたが、死因は脳腫瘍だったのかもしれない。また偏頭痛でも自己像幻視は起きるそうなので、必ずしも自分に会ったら死ぬわけでもない。芥川は頭痛持ちだったからドッペルゲンガーが起きたのではないかと考えられているようだ。しかし19世紀のフランス人の教師サジェという人は、教室と外の花壇に同時にいるのを40人以上もの生徒によって目撃されたそうなので、脳腫瘍や偏頭痛では説明がつかないケースもまれにあるらしい。
ちなみに私もかつて入眠時幻覚を毎日経験したし、今でも頭が疲れたり、眠る時間が遅く(およそ午前2時以降)になると入眠時幻覚をみることがある。自分の寝ている枕元へ、だいたい人間が来るのだが、来るのは気配で分かるし、締め切ったドアや窓からすーと入ってくる。そういう時は息づかいから衣擦れの音までものすごくリアルに聞こえる。
目が覚めている時にも、まれに幻覚を見ることがある。去年(2012年)のお正月の4日、自宅近くのバス停の椅子に腰掛けていた。バスを待っているのは私ひとりだった。しばらくすると椅子ががたがた動き始め、椅子に置いた荷物が上下し、地面が波打った。立ち上がって側のポールに掴まった。震度5くらいはあると思った。友人と食事の約束をしていて都心に出る予定だったが、これでは交通機関も麻痺するだろうし引き返そうかなと考えているとき、バスがやってきた。乗り込んでも誰も動揺している様子がない。最寄りの電車駅に着いても平常通り電車は動いている。都心に出て友人に会い、1時間ほど前強い地震があったわねえ、と言ったが地震なんってなかったよと言われた。恐くてもう他の人には言えなかった。脳ドックを年1回受診しているが、その後も異状はない。あまりにもリアルで鮮明だった〈幻覚〉はどうして起こったのだろう。東日本大地震の余震が頻発していた頃で、〈幻覚〉の2日ほど前にもデパートで買い物中に震度4の揺れを経験した。また起こるのではという恐れが〈幻覚〉をみさせたのだろうか。でも確かにがたがたと椅子の揺れる音を聞いたし、地面が波打っているのをしっかり見たのに。
幻覚ではないが、二十歳の頃、死んでいる自分を他の家族と一緒に眺めている夢をみた。夢の中でそれほど恐いとは思わなかった。目覚めて考えてみると夢の家も、出てきた家族の顔も見たことのないものだった。四十年以上経ったがこの夢はまだ覚えている。でも、渡辺松男の歌のように生きている自分自身にはまだ会ったことがない。(鹿取)
床(とこ)の間(ま)に祭られてあるわが首をうつつならねば泣いて見てゐし
『植物祭』前川佐美雄