2024年版 渡辺松男研究22(2014年12月)
【非常口】『寒気氾濫』(1997年)75頁~
参加者:S・I、泉真帆、崎尾廣子、鈴木良明、
曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:S・I 司会と記録:鹿取 未放
184 非常口からわれ逃げしときまぶしさのなかにかがやくまぶしさのあり
(レポート)
閉塞した情況から逃れ出たとき、まずは解放感を覚える。それを氏らしく「まぶしさ」と感覚的表現を用いている。その解放感の裡にひときわ輝くものを知覚するのが、五句の「まぶしさ」である。183番歌(ひとつ死のあるたび遠き一本の雪原の樹にあつまるひかり)の関連で解釈すれば、亡くなった人たちは束となって燦然と輝き、存在のありかを示しているのだろう。「あり」は存在を示す動詞だが、その存在を見出したという安堵感をも表しているように思われる。3句以下のひらがなが、いかにも柔らかく、安らぎのあるまぶしさに包まれているようで効果的である。(S・I)
(当日意見)
★5句めの輝いているのは死者達、というのがS・Iさんの解釈ですね。そして〈われ〉
は安堵感を覚えている。それから、前の183番歌の「あつまるひかり」はレポータ
ーによると「亡くなった人たちは束となって燦然と輝き」という解釈ですが、私はあ
くまで死者は一人、そこにひかりが集まってきて新しい死者を荘厳している、という
ように読んでいます。
ところで、この184番歌ですが、昔からこの歌すごく気になっていて、でも何か
釈然としなくて……私は5句めを一瞬かいまみた悟りのかがやきのように解釈してい
て、でも〈われ〉はその中に入って行こうと意志していないし、だから光かがやく堅
牢な世界からはねつけられているような感じがする。もしその輝く世界に入って行き
っきりになっちゃったら、言葉のある世界には戻ってこないような感じ……うまく説
明できませんけど。そんなふうなことを、「渡辺松男の〈死〉の歌」(「かりん」2
003年5月号)という評論で書いたことがあります。ただ、本人は「僕は悟りとい
うようなことは考えたことがないし、興味もありません」とはっきりおっしゃってい
ますけど。(鹿取)
★3句め以下すべてひらがな表記で柔らかですから、S・Iさんのように安堵ととる方が
普通かもしれないですね。私のようにそのかがやきを硬質と感じるのは特殊なのか
な。でも一連の表題にもなっている歌だから、重要な歌です。(鹿取)
★僕も後半の感じはよく分からないです。批評できない歌は沈黙しているしかないんで
す。それから悟りということばは批評用語としては使うべきではないと思います。松
男さんが悟っているか悟っていないかはどうでもいいことなんです。(鈴木)
★いや、どうでもいいとは思えませんが、松男さんは悟っていないです。一瞬垣間見え
たまぶしさの中に入って行くには無限のような質的な転換が必要で、何か超越しない
といけないのです。そうしてもちろん彼は入っていません。入ろうという意思も持た
なかったんですね。(鹿取)
★非常口から出たのではなく、逃げたというところには感情が入っている。(真帆)
★闇がテーマの一連で、リアルな非常口と読んでも解釈できますね。避難する事情が
あって非常口から逃げたけれど、薄暗い非常口から出た先はまぶしかった、そして
その先にはもっとまぶしい輝きがあった。こんなふうに解釈しても、やはり最後の
「まぶしさのなかにかがやくまぶしさ」は哲学的というか超越的に捉えるしかない
ような気がしますが。(鹿取)
(まとめ)
レポーターのS・Iさんは、非常口から逃げた先を死者が束になって光り輝いているような安堵の世界と感じ、私は硬質ではねつけられる感じと受け取った。しかし、いずれもその中に作者が入って行くことはない。たぶん、生きた人間には行くことが不可能な世界なのだろう。そしてそこには言葉は届かないし、言葉は不要な世界なのだろう。2003年の評論で「〈われ〉が一瞬かいまみた光り輝く不思議な世界を暗示しているように思われる」と解釈していたのだ。(鹿取)
(後日意見)(2015年8月)
2011年東京歌会での私が渡辺松男研究のレポーターになった折は、次のように発言している。(鹿取)
非常口は輪廻の輪(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)から逃れる出口のような気がする。一 瞬垣間見た光り輝く不思議な世界は、松男流に言えば平行世界での一瞬の鮮明な記憶かもしれない。しかし〈われ〉はそこに留まらず、鬱勃とした濃い情と膨大な問いを抱えたまま、抜けた歯 のように頼りなくとぼとぼと歩きだす。
【非常口】『寒気氾濫』(1997年)75頁~
参加者:S・I、泉真帆、崎尾廣子、鈴木良明、
曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:S・I 司会と記録:鹿取 未放
184 非常口からわれ逃げしときまぶしさのなかにかがやくまぶしさのあり
(レポート)
閉塞した情況から逃れ出たとき、まずは解放感を覚える。それを氏らしく「まぶしさ」と感覚的表現を用いている。その解放感の裡にひときわ輝くものを知覚するのが、五句の「まぶしさ」である。183番歌(ひとつ死のあるたび遠き一本の雪原の樹にあつまるひかり)の関連で解釈すれば、亡くなった人たちは束となって燦然と輝き、存在のありかを示しているのだろう。「あり」は存在を示す動詞だが、その存在を見出したという安堵感をも表しているように思われる。3句以下のひらがなが、いかにも柔らかく、安らぎのあるまぶしさに包まれているようで効果的である。(S・I)
(当日意見)
★5句めの輝いているのは死者達、というのがS・Iさんの解釈ですね。そして〈われ〉
は安堵感を覚えている。それから、前の183番歌の「あつまるひかり」はレポータ
ーによると「亡くなった人たちは束となって燦然と輝き」という解釈ですが、私はあ
くまで死者は一人、そこにひかりが集まってきて新しい死者を荘厳している、という
ように読んでいます。
ところで、この184番歌ですが、昔からこの歌すごく気になっていて、でも何か
釈然としなくて……私は5句めを一瞬かいまみた悟りのかがやきのように解釈してい
て、でも〈われ〉はその中に入って行こうと意志していないし、だから光かがやく堅
牢な世界からはねつけられているような感じがする。もしその輝く世界に入って行き
っきりになっちゃったら、言葉のある世界には戻ってこないような感じ……うまく説
明できませんけど。そんなふうなことを、「渡辺松男の〈死〉の歌」(「かりん」2
003年5月号)という評論で書いたことがあります。ただ、本人は「僕は悟りとい
うようなことは考えたことがないし、興味もありません」とはっきりおっしゃってい
ますけど。(鹿取)
★3句め以下すべてひらがな表記で柔らかですから、S・Iさんのように安堵ととる方が
普通かもしれないですね。私のようにそのかがやきを硬質と感じるのは特殊なのか
な。でも一連の表題にもなっている歌だから、重要な歌です。(鹿取)
★僕も後半の感じはよく分からないです。批評できない歌は沈黙しているしかないんで
す。それから悟りということばは批評用語としては使うべきではないと思います。松
男さんが悟っているか悟っていないかはどうでもいいことなんです。(鈴木)
★いや、どうでもいいとは思えませんが、松男さんは悟っていないです。一瞬垣間見え
たまぶしさの中に入って行くには無限のような質的な転換が必要で、何か超越しない
といけないのです。そうしてもちろん彼は入っていません。入ろうという意思も持た
なかったんですね。(鹿取)
★非常口から出たのではなく、逃げたというところには感情が入っている。(真帆)
★闇がテーマの一連で、リアルな非常口と読んでも解釈できますね。避難する事情が
あって非常口から逃げたけれど、薄暗い非常口から出た先はまぶしかった、そして
その先にはもっとまぶしい輝きがあった。こんなふうに解釈しても、やはり最後の
「まぶしさのなかにかがやくまぶしさ」は哲学的というか超越的に捉えるしかない
ような気がしますが。(鹿取)
(まとめ)
レポーターのS・Iさんは、非常口から逃げた先を死者が束になって光り輝いているような安堵の世界と感じ、私は硬質ではねつけられる感じと受け取った。しかし、いずれもその中に作者が入って行くことはない。たぶん、生きた人間には行くことが不可能な世界なのだろう。そしてそこには言葉は届かないし、言葉は不要な世界なのだろう。2003年の評論で「〈われ〉が一瞬かいまみた光り輝く不思議な世界を暗示しているように思われる」と解釈していたのだ。(鹿取)
(後日意見)(2015年8月)
2011年東京歌会での私が渡辺松男研究のレポーターになった折は、次のように発言している。(鹿取)
非常口は輪廻の輪(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)から逃れる出口のような気がする。一 瞬垣間見た光り輝く不思議な世界は、松男流に言えば平行世界での一瞬の鮮明な記憶かもしれない。しかし〈われ〉はそこに留まらず、鬱勃とした濃い情と膨大な問いを抱えたまま、抜けた歯 のように頼りなくとぼとぼと歩きだす。