※ 渡辺松男さんが、歌集「牧野植物園」で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞されました。
おめでとうございます。
以下のサイトに受賞理由が掲載されていますので、興味のある方はぜひご覧になってください。
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/93842101_02.pdf
最近、このブログでは馬場あき子の外国詠を続けていましたが、
渡辺松男の『寒気氾濫』の鑑賞を交互に入れてゆくことにしました。
どうぞよろしくお願いします。
2023年度版 渡辺松男研究2(13年2月実施)
【地下に還せり】『寒気氾濫』(1997年)9頁~
参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
後日意見:石井彩子
レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
8 そうだそのように怒りて上げてみよ見てみたかった象の足裏
(レポート)
象の大きな体を見ていると、その過剰な重力の重さに日々耐えながら一生を終えるように思えてくる。飛ぶことのできない人間も同じように重力に拘束されており、人間に対するメッセージでもある。重力に耐えているのではなく、内からの生の力にしたがい、あらがって足を上げてみよ、というのである。ニーチェは「高等な人間について」のなかで、「そなたたちの心を高めよ、わたしの兄弟たちよ、高く!もっと高く! そして願わくは足のことも忘れるな! そなたたちの足をも上げよ、そなたら良い舞踏者たちよ」と呼びかけている。しかし、象に対しては「幸福のなかにあっても鈍重な動物たちがいるものだ、生まれながらにして足の不格好な動物たちがいるものだ、逆立ちしようと骨折するゾウのように」とにべもない。これに対して、作者は、「見てみたかった象の足裏」と、象に対してもエールをおくる。ニーチェを肯いながらも、決してニーチェのように上から目線にならないところが、作者らしいのである。(鈴木)
(当日意見)
★伊藤一彦さんにこんな歌があります。(鹿取)
動物園に行くたび思い深まれる鶴は怒りているにあらずや
『月語抄』(一九七七年)
(後日意見)(15年4月)
この歌は無理にニーチェを出さなくてもいいと思うが、「高等な人間について」はツァラツストラが自ら産み出した大いなる思想を自ら受け入れる直前の章で、「自分の目的に近づいた人は踊るものなのだ」と言う。そしてレポーターの引用している『ツァラツストラ』の象の骨折の部分(翻訳者が違うので私のは骨折るとなっている)にはもう少し続きがある。「……逆立ちしようと骨折る象さながらに、かれらは奇妙に大骨を折る」この文脈からすると当然、象は比喩である。かれらとは「崇高な人間」ではあるが重力の霊に支配されて未だ鈍重な人間を指しているようだ。しかし『ツァラツストラ』の最終章では「崇高な人間」は言うまでもないが、友と呼びかけていた「高等な人間」たちさえも真の道連れではないことが判明し、ツァラツストラは独り行くことになるのである。もうひとつ、重力は体重とはまったく違うもので、レポーターの象や人間の重力に関する記述は私には肯えない。(鹿取)
おめでとうございます。
以下のサイトに受賞理由が掲載されていますので、興味のある方はぜひご覧になってください。
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/93842101_02.pdf
最近、このブログでは馬場あき子の外国詠を続けていましたが、
渡辺松男の『寒気氾濫』の鑑賞を交互に入れてゆくことにしました。
どうぞよろしくお願いします。
2023年度版 渡辺松男研究2(13年2月実施)
【地下に還せり】『寒気氾濫』(1997年)9頁~
参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
後日意見:石井彩子
レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
8 そうだそのように怒りて上げてみよ見てみたかった象の足裏
(レポート)
象の大きな体を見ていると、その過剰な重力の重さに日々耐えながら一生を終えるように思えてくる。飛ぶことのできない人間も同じように重力に拘束されており、人間に対するメッセージでもある。重力に耐えているのではなく、内からの生の力にしたがい、あらがって足を上げてみよ、というのである。ニーチェは「高等な人間について」のなかで、「そなたたちの心を高めよ、わたしの兄弟たちよ、高く!もっと高く! そして願わくは足のことも忘れるな! そなたたちの足をも上げよ、そなたら良い舞踏者たちよ」と呼びかけている。しかし、象に対しては「幸福のなかにあっても鈍重な動物たちがいるものだ、生まれながらにして足の不格好な動物たちがいるものだ、逆立ちしようと骨折するゾウのように」とにべもない。これに対して、作者は、「見てみたかった象の足裏」と、象に対してもエールをおくる。ニーチェを肯いながらも、決してニーチェのように上から目線にならないところが、作者らしいのである。(鈴木)
(当日意見)
★伊藤一彦さんにこんな歌があります。(鹿取)
動物園に行くたび思い深まれる鶴は怒りているにあらずや
『月語抄』(一九七七年)
(後日意見)(15年4月)
この歌は無理にニーチェを出さなくてもいいと思うが、「高等な人間について」はツァラツストラが自ら産み出した大いなる思想を自ら受け入れる直前の章で、「自分の目的に近づいた人は踊るものなのだ」と言う。そしてレポーターの引用している『ツァラツストラ』の象の骨折の部分(翻訳者が違うので私のは骨折るとなっている)にはもう少し続きがある。「……逆立ちしようと骨折る象さながらに、かれらは奇妙に大骨を折る」この文脈からすると当然、象は比喩である。かれらとは「崇高な人間」ではあるが重力の霊に支配されて未だ鈍重な人間を指しているようだ。しかし『ツァラツストラ』の最終章では「崇高な人間」は言うまでもないが、友と呼びかけていた「高等な人間」たちさえも真の道連れではないことが判明し、ツァラツストラは独り行くことになるのである。もうひとつ、重力は体重とはまったく違うもので、レポーターの象や人間の重力に関する記述は私には肯えない。(鹿取)
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