かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の鑑賞 6、7

2023-03-11 11:29:31 | 短歌の鑑賞
※ 渡辺松男さんが、歌集「牧野植物園」で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞されました。
  おめでとうございます。 
以下のサイトに受賞理由が掲載されていますので、興味のある方はぜひご覧になってください。
    https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/93842101_02.pdf

最近、このブログでは馬場あき子の外国詠を続けていましたが、
渡辺松男の『寒気氾濫』の鑑賞を交互に入れてゆくことにしました。
どうぞよろしくお願いします。 

    2023年度版 渡辺松男研究2(13年2月実施)
      【地下に還せり】『寒気氾濫』(1997年)9頁~
       参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
       後日意見:石井彩子
       レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放

 
6 土屋文明さえも知らざる大方のひとりなる父鉄工に生く
7 もはや死語となりておれども税吏への父の口癖「われわれ庶民」

       (レポート抄)
 この二首は、家族の「父」に関連づけて、民衆(庶民)の姿を詠んでおり、自らも庶民の子であることの表出でもある。ニーチェは、牧師の長男として生まれ、当時の上層階級に属するため、「私は高められているがゆえに下方を見下ろす」(『ツァラトゥストラ』)という視線が常にあるが、渡辺のはあくまでも対等な視線である。「土屋文明さえも知らざる」は、父たちへの侮蔑ではなく、より大事な実業の「鉄工に生く」という自負なのである。その反面、民衆は、「われわれ庶民」という言い方で、何かにつけ群れをなし、それに甘んじる心(ニーチェが嫌った)を併せ持っているのである。(鈴木)


     (当日意見)
★『寒気氾濫』の出版記念会の折り、「父に対して『土屋文明さえも知
 らざる』などということは言っちゃあいけない」と言った人があっ
 た。でも、そんなことはないんじゃないか。(鈴木)
★6について、作者の親たちの世代、または作者の生まれた地方では、
 実学が大事で詩歌などは腹の足しにならないという考えはごく一般
 的で、地元出身の歌人土屋文明すら知らない人が多かった。そして
 生きるために懸命に働いている。そのことを作者は淡々と詠ってい
 て、自分とは違う生き方だけれど否定しているわけではない。7の
 歌は、庶民のしたたかさが出ている。相手を立てて自分たちをへり
 くだりながら実(じつ)を取ろうとしている態度。何かをかわした
 りすり抜けようとするときのしたたかさ。確かに『ツァラツストラ』
 では、群れるな独りになれ、私も独りで行くから、君たちも犀の角
 のように孤独に行けって、しばしば言っていますね。(鹿取)
★今の時代とニーチェの時代は違っていて、ニーチェの時代は形式的
 な平等主義だったのではないか。今は実質的平等を与えるという考
 え。だから必ずしもニーチェが弱者をさげすむのとはちょっと違う。
 民主主義を批判するためにニーチェが利用されている面もある。
   (鈴木)
★「力への意志」というのも利用されましたよね。(鹿取)
★ナチスから利用されやすい考え方ではある。作者の視点は鹿取さん
 が「かりん」2月号の評論「アンチ朔太郎」にも書いていたよう
 に、あらゆるものに平等。そこがニーチェと違う点だと思う。
     (鈴木)
★ニーチェは思考における高みを言っているわけで、超人にして
 も政治的意図でいっている訳では全然ない。それを選民思想と
 して利用されただけ。鈴木さんが引いていらっしゃる「私は高
 められているがゆえに下方を見下ろす」(『ツァラツスト
 ラ』)も、上層階級に属しているとかではなくて精神的な高み
 のことを言っているのだと思う。渡辺さんには、日常を生きる
 ことと、精神の高みを目指すこととの葛藤が常にあるように思
 う。(鹿取)


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