かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 32(アフリカ)

2018-12-26 19:42:20 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠4(2008年1月実施)
  【阿弗利加 2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P162~
  参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、高村典子、
       藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:渡部慧子      司会とまとめ:鹿取 未放
 

32 水売りの皮袋の水はどんな水もろ手一杯買へば涼しも

     (まとめ)
 テレビの旅番組でモロッコの水売りをみたことがあるが、老爺が斜めに掛けた皮袋から細長い管が出ていて、両胸にぶら下がった6~7個のコップの一つに注いでいた。この歌の場合はコップに注がれたものを両手にうけたのかもしれないし、作者のことだから手にちょうだいと言ってもらったのかもしれない。もろ手に買ったところで詩になっている。
 尾崎放哉に「入れものが無い両手で受ける」という句があるが、ひとから施し物をもらうときの有り難い気分が「両手で受ける」という言いまわしに滲んでいる。この歌の「もろ手一杯」はどうであろうか、(観光客はペットボトルの水をいくらでも購入できる時代だから)水そのものを尊ぶより、水売りという伝統を珍しがり、はしゃいでいる気分かもしれない。
 ちなみに、レポーターの挙げた万葉集の1首目は有間皇子作(と、言われている)。かつて訪れたネパールの街角で、アイスクリームを買いに来た子供に葉っぱに乗せて渡している光景に出会ったことがある。2首めは作者未詳。(鹿取)


     (レポート)
 その透明性ゆえにおしゃれが売られるようにペットボトルの水が店に積まれている日本を出て、ここモロッコでは皮袋に水が貯えてあるらしい。材質はモロッコ革であろう。「どんな水」とあるようにみえない水を買うのだが「もろ手一杯買へば涼しも」と弾んだ様子が伺える。あらかじめ用意された器があったのかどうか、それはさておき、手というものをおりおり美しくうたいあげる作者ならではの一首だが、万葉集中の〈家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る〉〈鈴が音の早馬駅家(はゆまうまや)の包井の水を賜へな妹が直手よ〉など想われて楽しい一首。(慧子)
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馬場あき子の外国詠 31(アフリカ)

2018-12-25 19:23:36 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠4(2008年1月実施)
  【阿弗利加 2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P162~
   参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、高村典子、
       藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:渡部慧子      司会とまとめ:鹿取 未放
 

31 観光として生き残る水売りの老爺鈴振る真赤(まつか)なる服

      (まとめ)
 レポーターは真赤な服をサンタクロースの格好ととらえているが、民族衣装だろう。おそらくかつて実用として水が売られていた時から着用していたのだろう。観光としてのあざとさがいくらかは気にかかりながら、作者にはそういう風俗を伝えつづけてほしい気持ちもあるのではないか。
 レポーターが引いている水牛の歌は、この歌にはあまり関連しないが、馬場あき子歌集『南島』に載る。沖縄の先島七島を巡った旅の歌で、由布島での体験がもとになっているようだ。沖縄の小さな島で戦争を越え、老いて更に生き続ける人の労苦がいかばかりだったか、直接問うことはしないで思いやっている、重くしみじみとした歌である。(鹿取)


      (レポート)
 アフリカモロッコは水の少ない地であろう。そういう暮らしにつながる水売りに出会った。どうやら観光客相手に、その形を残しているらしいが、老爺のいでたちはまるでサンタクロースだ。国民の99%がイスラム教であるというモロッコにおいて、キリスト教文化の一端を取り込んで商魂たくましくユーモラスに生きている様がとらえられているのだが、商魂とかかわらなくても、世の虚飾にとらわれずどのようにもなりおおせる老爺、そんなところへも想いのおよぶ一首だ。 (慧子)
 観光の水牛の後(しり)に吾を乗せし老爺の戦後問はず思はむ

                    

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馬場あき子の外国詠 30(アフリカ)

2018-12-24 20:08:07 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠4(2008年1月実施)
  【阿弗利加 2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P162~
  参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、高村典子、
       藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:渡部慧子      司会とまとめ:鹿取 未放
 

 
30 カサブランカに降(お)りて時間を巻き戻し九時間前の太陽に会ふ

     (まとめ)
 カサブランカは「白い家」の意。カサブランカと日本の時差は9時間、現地について実際腕時計を巻き戻して現地時間に合わせたのだろう。時差の不思議を歌っているのだが、白い家とさんさんと照る太陽がよく映りあっている。
 レポーターの発言にあるのは、永田和宏歌集『華氏』の「時差」の一連でアメリカで師・高安国世の死を知ったの次のような歌を思い浮かべているのであろう。(鹿取)
    高安国世氏の死去は、七月三十日午前五時十二分。ひとり待つその時刻までの、ながい夜。
  朝と夜をわれら違えてあまつさえ死の前日に死は知らさるる
  君が死の朝明けて来ぬああわれは君が死へいま遡りいつ

   
     (レポート)
 カサブランカはモロッコの空の玄関、15世紀にポルトガル人がこの街を建設し、そう名付けた。その後20世紀初めフランス統治下にて近代都市に改造され、現在に至っている。
 そこへ馬場あき子一行は安着した。時差を詠っているのだが「九時間前の太陽に会ふ」とは同行した清見糺の「モロッコ私紀行」※を参照にするとよく理解できる。
 世に不可能をあげるなら、時間を巻き戻すことがひとつある。それを歌においてやすやすとやってのけ、快感のある一首だ。(慧子)
  ※9月16日21時55分成田発⇒⇒⇒20時間飛行してジブラルタルを越え、モロッコ到着
         (日本時間 9月17日18時20分)
          (現地時間 9月17日10時20分)
   
                    

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馬場あき子の外国詠 29(アフリカ)

2018-12-23 11:40:26 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠3(2007年12月実施)
    【阿弗利加 1サハラ】『青い夜のことば』(1999年刊)P159~
      参加者:N・I、Y・S、崎尾廣子、T・S、高村典子、藤本満須子、
          T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:藤本満須子 司会とまとめ:鹿取未放


29 サハラ砂漠に風紋をなす音きこゆ天の目のごと大き星星

     (まとめ)
 刻一刻と変化する美しい風紋は風によって起こる。その風はどんな音で吹いているのであろうか。ごうごうと音を立てるほど大きいのか、かすかなのか、荒々しいのか?ともあれ、風とともにうたわれる風紋は、荒蕪としか感じられなかった広大な砂漠が、どこまでも美しい風紋をともなったイメージとして現れ、ぐっと優しい姿になる。空を見上げると瞬く星星は天の目であるかのように大きい。天の目は怖いようでもあり、優しく見守っているようでもあるい。それら荒涼とした砂漠のイメージから人間的なぬくもりへと風景が一変したかのように見えるのは、一日のみでここを去らねばならない作者の愛惜の反映かもしれない。(鹿取)
 

     (レポート抄)
 サハラの広大な景と夜の空に遮るもののない星星がきらめいている。まるで天の目のようだ。「天の目」とうたったところにこの歌の眼目がある。天の目のような星に作者は見られている。見つめられていると感じながら星を仰ぎながら夜のサハラを後にしたに違いない。サハラの一連の最後のうたとして作者の万感の思いが胸に迫り、読み手に伝わってくる。(藤本)
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馬場あき子の外国詠 28(アフリカ)

2018-12-22 19:30:31 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠3(2007年12月実施)
    【阿弗利加 1サハラ】『青い夜のことば』(1999年刊)P159~
      参加者:N・I、Y・S、崎尾廣子、T・S、高村典子、藤本満須子、
          T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:藤本満須子 司会とまとめ:鹿取未放


28 砂漠のやうな孤独といへば気障(きざ)ながらわれに必ず近づく予感

     (まとめ)
 想像を絶した沙漠の無、それは作者の精神に深い衝撃を与えた。この世の価値の何もかもを呑み込んで無化してしまうような沙漠に触れて困惑しながら、やがて自分にもそんな孤独が来ることを予感している。(鹿取)


      (レポート)
 たった一日ではあるがサハラへ踏み入ったことによる孤独感や日常では味わえない感興、その上の句を受けて自分自身に引きつけて今に必ず孤独は近づいてくるのだと。否うたっているその時点でも作者は常に孤独を味わっているのだろうか。ここでは老いてゆくもの、死にゆくもの、そのような孤独とは別の次元をうたっているように感じる。(藤本)
 


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