かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 76

2020-08-26 20:39:37 | 短歌の鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究⑨(13年10月)
       【からーん】『寒気氾濫』(1997年)33頁~
        参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター 鈴木 良明    司会と記録:鹿取 未放


76 銀ねずの鱗をはがしあうごとくビルのうちにいてぶつかりあえり

     (レポート)
 ぶつかりあうことの形容として、「銀ねずの鱗をはがしあうごとく」という比喩が登場する。魚同士が激しく闘争しぶつかりあって、体表の鱗を傷つけあう様が浮かんでくる。ひりひりとした銀ねず色の痛みが感じられる。ぶつかりあっているのは、ビルの中で働く作者の属する組織の面面だろうか。無機質の閉ざされたビルの中で日がな暮らしていると、水槽の魚たちのように息苦しくなり、ささいなことで衝突する。ここで「ぶつかりあう」は、もっぱら仕事を通しての、人と人との軋轢のことだろう。(鈴木)


     (意見)
 ★実際に魚同士がぶつかるってあるんでしょうか?まあ、実際ぶつからなくっても痛み
  の感覚として分かるので、どっちでもいいですけど。こういう比喩を思いつくのがす
  ばらしい。(鹿取)
 ★大きな水槽なんかでは大きな魚や小さな魚がごっちゃに入れられていて、ぶつかって
  いるような気がしますよね。(鈴木)




   

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渡辺松男の一首鑑賞 75

2020-08-25 21:42:15 | 短歌の鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究⑨(13年10月)
       【からーん】『寒気氾濫』(1997年)33頁~
        参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター 鈴木 良明    司会と記録:鹿取 未放


75 見付けたきもの見付からぬ倉庫にて物言わぬ荷に視姦されいき

      (レポート)
 たぶん家業の手伝いのために、普段あまり入らない倉庫に入って物を探したのだろう。「私が物を見る」ということは、同時に「私は物から見られている」ということでもある。倉庫に入って意識的にものを探しているときには、「物を見る」という私の主体が強く働いている。ところが、当のものが見つからないとき、主体は肩透かしを食らって、今度は一転、私は客体に転化し、「物から見られている」という意識が強く浮上してくる。物言わぬ荷にまじまじ見つめられて、まるで視姦されているかのようだ。(鈴木)

  (意見)
★私もよくこういうことがあります。本当はあるんだけど、見つけることができなくて、
 向こうから見られている感じ。(曽我)
★こういう場面はけっこうある。特に人気のない倉庫だと怖くて、物に見られている感じ
 がする。子供がまだものが言えない赤ん坊の時、ふたりきりでいたら、赤ん坊の視線が
 とっても怖いと思ったことがある。我が子なのに目の奥に異星人みたいな得体の知れな
 いものが潜んでいて覗かれているようで怖かった。それとこの歌の感覚は似ている気が
 する。(鹿取)
★こういうのを歌にするのは難しいことだし、こういうの歌になるかしらと思ってなか
 なか作れないですね。どう歌って良いか分からないし。こういう経験を即、まあ即か
 どうか分からないけど、歌にしてしまうところが渡辺さんのすごいところ。(鈴木)
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渡辺松男の一首鑑賞 74

2020-08-24 19:48:07 | 短歌の鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究⑨(13年10月)
       【からーん】『寒気氾濫』(1997年)33頁~
        参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター 鈴木 良明    司会と記録:鹿取 未放


74 廃坑のごとくに耳の穴はある老祖父はただ笑むばかりなり

       (レポート)
 耳が遠くなり人の話について行けなくなったのだろう、老祖父はただ微笑むばかりの好好爺である。「廃坑のごとくに」耳の穴はある、という比喩が的確である。廃坑は、むろん初めから廃坑だったわけではなく、鉱山や炭鉱で盛んに人や物が行き交い、にぎわった過去を背負った言葉である。そのように老祖父の耳も、元気な頃は活発に働いて、耳の穴を行き交う様々な音や声を聞きわけていたのである。しかし、高齢の今は、行き交うものも少なくなり、聞きわける力も衰えて、「廃坑」となった坑道のようにがらんどうで、ひっそりとした「耳の穴」である。(鈴木)

      (当日意見)
★「ただ笑むばかりなり」に作者の思いがあるのが伝わってきますね。(崎尾)
★耳が遠くなって人の言葉についていけなくなる寂しさがよく出ている。(曽我)
★渡辺さん歌の中では、働いて食べて寝る、無駄なことはしゃべらない、鰥夫(やもめ)
 で、根っからの生活者としておじいさんを造形していて、そのおじいさん像がとても
 好きです。ちょっとこれは違う視点で、寂しいですが、「廃坑」が比喩としてすばら
 しいです。鈴木さんの解釈で、その点がよく分かります。(鹿取)
★老祖父は幾つくらいなんだろうね。昔は隠居という制度があったから、何かゆったり
  した感じがする。(鈴木)

(後日意見)
同じ『寒気氾濫』に耳を歌った次のような歌がある。掲出歌とは全く違って、ナイーブな相聞の匂いがするような歌だ。(鹿取)
   はずかしさのまんなかにある耳の穴卯月はつかな風にふるえる
 
 
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渡辺松男の一首鑑賞  73

2020-08-23 18:56:21 | 短歌の鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究 ⑧(13年9月)
      【からーん】『寒気氾濫』(1997年)30頁~
       参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、高村典子、渡部慧子       
           司会と記録:鹿取 未放


73 ネクロポリスは月のかたちの石に満ち人寿三万歳のわれは行く

      (意見)
 ★実際こういった場所があるんですかね。それとも参考として書かれているような状態
  のことをネクロポリスと言うんでしょうかね。ちょっと勉強して来なかったんですけ
  ど。(鈴木)
 ★私は大都市近郊の日本の現代の墓地ということで解釈したんですけど。(崎尾)
 ★実景とか具体的な場面ではないように思いますが。実景だとしたら日本の都市近郊の
  墓地に月の形をした石が「満ち」ってあり得ないでしょう。三日月にしたってまん丸
  にしたって半月にしたって。第一〈われ〉は三万歳なんだから現実にはないでしょう。
  もちろん外国にはこの通りの巨大な墓があるかもしれないけど、旅行している訳では
  ないと思うし。でも読み手は景も〈われ〉もこの通りのものとしてリアルに受け止め
  ないといけないし、私は書いてあるとおりに受け止めるけど。(鹿取)
 ★崎尾さんが死者の都とも言ったけど、その意味の方が広がりが出ますよね。(鈴木)
 ★そうすると人間始まって以来の、それこそ恒河沙の数の人間が全部眠っている死後の
  世界。でも三万歳というのは何なんでしょうね。クロマニヨン人は4万年くらい前で
  したっけ?(鹿取) 
 ★死者の都とか月の形の石に満ちというところが、とてもいいなと思いました。それか
  ら渡辺さんはよくいろんなところへ行くなあと思いました。(笑)(高村)
 ★三万歳の字がなにか万歳に見える。そこを意識しているのかなあ。(慧子)
 ★いやあ、おおらかに諸手上げて人間万歳というような立ち位置の人でもないから、ど
  うなんでしょうね。(鹿取)
 ★前の歌では狭いところに閉じこめられて甕の中にいたけど、今度はこんなに大きくな
  って(笑)。ちまちましたところにずっといないのが渡辺さんらしい。連作で大小交
  互にきているみたいだ。(鈴木)
 ★月の形だからけっして汚くなくって。月という漢字が読み手に浮かぶように選ばれて
  いると思う。(高村)
 ★三万歳って思いついても、普通の人は読み手に受け入れられないだろうと思って使え
  ないですよね。(鈴木)
 ★こういう言葉を矯めて詩にできる力業が渡辺さん、すごいですよね。(鹿取)
 ★しかも実感がこもっている。作り物って感じがまったくしない。(鈴木)
 ★この一連の題が「からーん」で、そこも面白い。テレビで「ちゃらーん」って言って
  いた落語家がいたけど、そういう感じかな。(鈴木)


       (追記)
 Wikipediaによると「ネクロポリスとは、巨大な墓地または埋葬場所である。語源は、ギリシャ語の「nekropolis(死者の都)」。大都市近郊の現代の共同墓地の他に、古代文明の中心地の近くにあった墓所、しばしば人の住まなくなった都市や町を指す。」(一部省略)
 もしかしたら、今、〈われ〉が三万歳なのではなく、人類滅亡後の世界を透視しているのかもしれない。三万歳になった〈われ〉がいるのは、死者の都=ネクロポリス。累々と人類の墓碑が広がっているのだ。しかしこの歌に身震ふほどの怖さを感じないのは、月の形の石で、ロマンがあるからか。月によって死が清浄に感じられるからか。月の形の石に満ちた景にこそ作者の独特の思いがあるのだろう。 (鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 72

2020-08-22 20:31:25 | 短歌の鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究 ⑧(13年9月)
      【からーん】『寒気氾濫』(1997年)30頁~
       参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、高村典子、渡部慧子
       司会と記録:鹿取 未放


72 閉じられし屈葬の甕のなかに覚め叫ぶときエゴン・シーレなるなり
    
      (意見)   
 ★私けっこうエゴン・シーレが好きです。かなり強烈な絵ですけど。(曽我)
 ★では、曽我さん、この歌についてはどう思われますか?(鹿取)
 ★叫びをあげるような感じの絵ですよね。渡辺さんの歌は、自分も甕の中で目覚めたら
  シーレのように叫ぶんじゃないかという歌なのでは?(曽我)
 ★私はこの歌は渡辺さん自身の心象と思って読みました。そういうふうに読むとすごく
  納得する。(高村)
 ★誰でもこういう状況に置かれて覚めたらびっくりしてってことだと思うけど。(鈴木)

      (追記)
 エゴン・シーレは、ごつごつしていて斑点があるような、普通には美しいと言えない人
体を描いている。「意図的に捻じ曲げられたポーズの人物画を多数製作」、「死や性行為など倫理的に避けられるテーマをむしろ強調するような作品」(ウィキペディア)を描きました。画集を繰っても「屈葬の甕のなかに覚め叫ぶ」絵は見あたりませんでした。作者は、シーレの「意図的に捻じ曲げられたポーズの人物画」から「屈葬の甕」の中の〈われ〉を着想したのかもしれません。甕の中で目覚めた〈われ〉は恐怖のあまり叫ぶ訳ですが、それは28歳という若さで病死したシーレ自身の口惜しさでもあるのでしょう。(鹿取)


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