かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 257

2024-10-08 19:12:10 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の34(2024年8月実施)
     Ⅳ〈白骨観〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P167~
     参加者:M・A、岡東和子、鹿取未放、
          菅原あつ子(紙上参加)、山田公子(紙上参加)
     司会と記録:鹿取未放


257 村に人音もなく老い秋桜咲き村ほろびても人老いつづく

    (紙上意見)
●人の暮らしがどう変わろうとも、いきものとしての人は生き、老いてゆく…という ことか…(菅原)

⚫滅びようとしている廃村に秋桜が咲き乱れている。どんな状況下にあり続けようと、人は老い 続ける…白骨に近づいてゆくために。(山田)


      (当日意見)
★過疎の村の情景というのは分かりますね。コスモスがいたるところの道ばたや空き地
 に咲いていて、たまに見かけるのはおじいさん、おばあさんばっかり。(鹿取)
★この間読んだ253番の歌「村びとは年取りている村はずれ大きなる穴ありて雲と
 ぶ」と似た世界ですね。初めて読むのでそんな気がするのかもしれませんが。わか
 りやすくて、まとまったいい歌ですね。 (M・A)
★「村」というのは村落共同体のことでしょうか。いろんな決まりや約束事があるん
 だけれど、老人ばかりになってそれらが機能しなくなっている。例えば神社の大掃除
 とか道の整備とかお堂の草刈りとか、体が不自由な人が次々に出てきて、やりたくて
 も出来ない。(鹿取)
★人と村とどっちが先に滅ぶとかもあるけれど、そういうものを超えたところのことを
 言っているのでしょうか。老い続くというのはそこがどういう環境であれ老い続く、
 あるいは生き続く、そして滅びに近づいて行く。「村ほろびても人老いつづく」という
 ところにひねり、というか、人間が負った時間の残酷さのようなものを感じます。
   (M・A)
★すごく理屈で考えたら、村落共同体が機能しなくなって、老人はそこここに生きて
 はいるんだけれど「村」としては存続していないも同様の状態、まあそんなことを
 言っているのかなあ。詩としての解釈は別ですけど。「音も無く老い」も老人のゆる
 ゆるした動作や、家がポツンポツンと建っている感じ、空き家もあったり、家には
 一 人あるいはせいぜい夫婦二人で住んでいるくらいの過疎。わりと実感がある。
  (鹿取)
★過疎の村の情景ということですかね。村長さんもいないし、棄てられた村。そこに
 人がひっそりと住んでいる。そんなところに詩情を感じます。(M・A)
★2001,2年頃かなあ、湯桧曽温泉というところで松男さんと歌仙を巻いたこと
 があります。(余談ですが、馬場先生に報告したら、「岩田と新婚旅行に行った」宿
 だったそうです)、その歌仙で松男さん「農村消滅してしまいけり」という句を付け
 られたんですけど、考えたらこの歌集が出た後ですね。松男さん、群馬の人だから
 こういう情景はなじみのある情景なのでしょうね。(鹿取)
★こういう滅び方というのは、本来の滅び方なのかなと思います。都会のオートロッ
 クのマンションの中で友人が熱中症で亡くなったのを思い出しました。自然の中で
 死ぬ方が幸せなような。(岡東)
 
コメント
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