マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

荒川知水資料館

2011年03月21日 | 江戸の川・東京の川

 荒川河口から22Km地点に岩淵水門があり、その脇に荒川知水資料館はあります。知水資料館の事務局長の説明によると、この館の開設趣旨は「荒川とはどんな川か、流域の人とどうかかわり、どんな問題を抱えているのか」を知ってもらう事だそうです。私は荒川の流れの変遷が知りたくての見学です。(旧岩淵水門:別名赤水門)




 残念ながらこの時期、展示は1階のみ。2階・3階は計画停電のためか、あるいは余震に備えての為か、電灯は消され、中には入れません。1階には源流から河口までの大型イラスト、荒川に生息する魚が泳ぐ水槽、流域市民団体の情報や企画、絵画や写真などが展示されています。
 2階・3階の展示場には入れませんが、3階までの階段には、かって東京新聞が連載し、好評を博した「荒川新発見」の記事が貼ってあり、これを熟読しました。この「荒川新発見」は本として出版されていて、依頼すれば貸出しも行うとのこと。そこで1階受付に戻り、この本の貸出しを頼み
、併せて流域変遷を調べるのにベストな資料は何か聞きました。親切な対応をして頂き、4点ほどの資料も頂いて来ました。

 明治時代、荒川は現在の岩淵水門より下流では、現在の隅田川を流れていました。
 この”荒ぶる川”荒川は数知れない氾濫を繰り返してきました。「荒川新発見」によれば、享保2年(1742年)の大洪水では、江戸下町を中心に3914人の溺死者を出したと「享保江戸洪水記」は伝えます。また安政6年(1859年)、長瀞地域では、川から高さ20mの地点にまで大洪水が襲い掛ったと。明治40年(1907年)、明治43年(1910年)の大洪水では最悪の事態を迎え、この水害での死者は369人、浸水流失家屋は27万戸、被災者は159万人に達したそうです。
 この膨大な流失被害に衝撃を受けた政府は、岩淵町下流の南東に放水路開削を決意、明治44年(1911年)から国の直轄事業を開始し、大正13年(1924年)に通水式、昭和3年(1930年)に、20年の歳月を費やし、多くの犠牲者を出してようやく完成。開削予定地から追われた家屋1300戸にも上ったそうです。これ以降大きな洪水被害は蒙っていないとも書かれています。
 
 この荒川放水路と現在の隅田川の分岐点にあるのが岩淵水門。この水門の下流では以前の荒川は隅田川と名前を変え、その東側を流れる荒川放水路は荒川と名称変更し、両川とも東京湾に注いでいます。幅500mもあり、とうとうと流れる荒川が今から100年ほど前、主として人の手によって掘り始められた川であった事実に驚かされます。(左、船が進むのが荒川:右は隅田川へ)

 

 



   (手前が下流:左へ隅田川。右へ荒川)


   (赤水門を望み、左隅田川へ。右荒川)