マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

荒川の瀬替え

2011年03月23日 | 江戸の川・東京の川

 甲斐の国(山梨県)、武蔵の国(埼玉県)、信濃の国(長野県)の3県の境に跨るが故にその名を冠せられた甲武信ヶ岳、標高は2475mにして百名山の一つ。甲斐の国へ流れる水は富士川として太平洋に注ぎ、信濃の国へ流れる水は、千曲川から信濃川と名前を変えて日本海へと流れ込みます。武蔵野の国へと下った水は荒川として東京湾へ流れ下ります。まさに甲武信ヶ岳は分水嶺なのです。
 その甲武信岳を水源とし、東京湾を河口とする荒川は、幾たびかその流路を変えてきました。鈴木理生著「江戸・東京の川と水辺の事典」や東京新聞出版局発行の「荒川新発見」によれば、瀬替えは何度か行われたが、大きな瀬替えは2つあったと。一つは明治44年から開削が開始された荒川放水路によるもの。もう一つが江戸時代初期の寛永6年(1629年)に着手された大改造です。
 徳川幕府は、寛永6年、関東郡代の伊奈忠治に、熊谷の久下(くげ)付近での「流路の付け替え」=瀬替え工事を命じます。それ以前の荒川は、今の川筋ではなく、その東側にある現在の元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(現古利根川)に合流し江戸に流れ込んでいました。それを、荒川の西を流れる和田吉野川を経て入間川に水が流れ込むように、流路を人工的に作り替え、それまでの荒川を”封鎖”し、せき止めたのです。
 それに先立つ元和年間には、利根川を江戸から外し、銚子へと流路を変更させる改修工事も伊奈家に命じ、世に言う「利根川の東遷、荒川の西遷」が江戸時初期から進められ、利根川と荒川の荒ぶる二大河川の流路は遠ざけられたのでした。「荒川西遷」の狙いは狭山丘陵からの木材運搬路の確保と、埼玉平野の新田開発の為であり、「利根川東遷」の目的は、実は江戸への洪水防止策としての治水工事ではなく、日本海沿岸地方から内陸河川を通じての東回り廻船航路という安定した、安全な航路の確保にあったと言われています。
 問題は「荒川西遷」によって、新荒川流域の農村に洪水が押し付けられたことです。その根本的解消は荒川放水路完成までの長い年月続きました。

   (利根川と荒川の流路の変遷:「埼玉県の歴史」より)


 久下で堰きとめられ、(=頭を失い)、歴史の表舞台から消してしまった
旧荒川に眼を転じると、旧荒川は、塞き止められた近辺の涌水を水源として、過去よりは狭い川幅ながら、ムサシトミオと言う名の小魚を育み、田畑を潤し、桜並木を咲かせ、地元住民に愛され 越谷市で中川に合流し、東京湾に注いでいます。その源流のある久下の堤防そばの研究センターは熊谷市にあります。深谷市に住む義理の妹夫妻を訪れた折に、この川沿いを是非散策したいと、今から胸膨らませます。