マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「塩の道」を歩く(その1)

2016年08月27日 | 

 昨夜午後11時前に無事「北信濃」の旅から帰ってきました。今回の旅で特に印象深かったのは「塩の道」と「縄文文化」です。今後、何回かにわたり綴ります。

 宮本常一著『塩の道』を読んで以来、いつかはその道を辿りたいと思っていた。
 長野県や岐阜県・群馬県など海に面していない県は、海に面する県からの塩に頼らざるを得なかった。長野県(信州)へは幾つかの“塩の道”と呼ばれる道があった。東からは江戸川(元利根川)の奥へと、川舟で倉賀野まで上り、陸路を通って長野県へ。南からは富士川を遡り、鰍沢からは陸路諏訪方面へ。北からは糸魚川を出発点として千国街道を松本方面へ。この最後にあげた道を“北・塩の道”と呼べば、私は特にこの“北・塩の道”を歩きたかった。






 824日(水)、漸く念願が叶い、白馬から神城・長谷寺までの約4kmの道を歩いた。全長120kmに及ぶ塩の道は、石仏が多く点在することでも知られている。もはやその全長を歩くことは無理にしろ、少しでもその息吹を感じてみたいと思いながらの出発。
 白馬駅を背にして山側に300mほど進むと、国道号148線に平行するかの様に走る塩の道と交差する。その交差点には案内図、道標がしっかり立っていた。その案内図を読み取って、これから辿ろうとする道の知識を頭に入れると、石仏への期待感が増していった。その期待は裏切られないかったのだが、行動の記録は次回へ回し、今回は「塩の道 千国街道」説明板の内容を記しておきたい。


 説明板”塩の道 千国街道”より
 『千国街道の名は、遠く中世以前にさかのぼるものである。北陸道からは姫川沿いに信州への、東山道・木曽街道からは松本平・安曇野を縦貫して、越後へ通じる道であった。
 近世にあっては、越後では松本街道、信州側では糸魚川街道とも呼んだ、120余キロの間を言うのであるが、信州と越後を結ぶ動脈として、塩・麻などの海陸物資の交流は繁げく、街道が整備される明治20年前後まで、主街道の座にあって、経済道路としての役割は極めて大きかった。荷物の輸送は、すべて牛馬とボッカによるものであった。



 千国街道は安曇野の豊かな田園地帯を貫き、仁科三湖を巡り、北アルプスを仰ぎ、渓谷に沿うなど、稀にみる美しい風景の地を辿っているが、白馬小谷地方は豪雪地帯である上に険路が多く、物資の輸送は難渋を極めたのであった。街道時代にはわずかに旅芸人の通うところであったが、薄の穂波に見え隠れする庶民の汗の道として、また山村風俗・自然・石仏の宝庫として、激しい郷愁を誘う道ともなっている。
 戦国期、敵に塩を送るという美談で知られる越後の上杉謙信が甲斐の武田信玄に、牛馬の隊列を整え塩を送ったというのも、この街道であった』
 
(写真は上は道沿いの石仏。右はホテルから一瞬見えた白馬山頂)