私がマレーシアから帰国するに当たり、キャメロンハイランドから一人で返すのは心配と判断していた妹夫妻は、私をTCCC空港まで送る事に決めていました。ただ送るだけでは勿体ないと、帰途に着く前々日にはマラッカ海峡に沈む夕陽を観、更にその翌日にはセランゴールまで足を延ばし、蛍を鑑賞するように計画を膨らませ、ホテルの予約も完了していました。本を参考にしながら主として妹が立てた計画です。
2月10日(金)早朝、Mさんご夫妻、Sさん、妹夫婦、私の6人はキュメロンハイランド発のバスに乗車、4時間後にバスターミナル「プドゥラヤ」に到着。更にタクシーに乗り替えてクアラルンプール市内にある「TBS」と言う名のバスターミナルへ。そこから半島を南下すること1時間半でマラッカ到着。 ホテル到着後、早速市内見学を開始。ここマラッカはヨーロッパとアジアを結ぶ貿易の中継点として栄えた世界遺産都市です。築後250年以上経った今も独特のオランダ建築様式を伝え残すクライシスチャーチ前で記念撮影。カメラに目を向けると太陽が強烈に眩しく感じられ、ここが赤道から僅かしか離れていない地であることを実感します。(写真:クライシス教会)
小高い丘に上ると、そこがセントポール教会礼拝堂跡。海峡を望む様にセント・フランシスコ・ザビエルの像が立ちます。そこから沈みゆく夕陽を見る予定でしたが、この時刻太陽はまだ天空に輝き、日没まで2時間はかかりそう。昼食をしっかり摂っていないので空腹はここに極り、沈みゆく夕陽は断念し、チャイナタウンへと急行し、まずは喉を潤したのでした。(写真:セントポール教会礼拝堂跡のザビエル像)
(マラッカ川)
2月11日(土)、マラッカからクアラルンプールに戻り、そこから北上しセランゴールへ2時間半のバス旅。さすがに疲れました。しかし到着した宿はセランゴール川の水を引き込んだ池の上に立ち、その風景が心なごませてくれます。ここを訪れた目的は蛍鑑賞。午後8時に出発した小舟はセランゴール川を行きます。その舟から無数の蛍の灯が見え、満天の星の輝きと時折光る稲妻と、光の競演でした。南国でこの様な光景に出合うとは予想もしていませんでした。(写真:セランゴールにて)
素晴らしい光景を最後に鑑賞し、2月12日帰国の途に着きました。
キャメロンハイランドに着いて、数日後に聞かされた話に「月光荘事件」があります。
舞台はここキャメロンハイランド。時は昭和42年3月26日。タイのシルク王と呼ばれたアメリカ人の大富豪ジム・トンプソン氏の謎の失踪事件です。
もともと、キャメロン高原は英国の植民地時代に切り開かた別荘地で、その一角のマラヤ山中の、密林の中の開けた台地に建てられたリン博士の建物が月光荘。バンコクで骨董品店を経営するマンスコー夫人とトンプソン氏は毎年のようにイースター前の休暇を、ここ月光荘で過ごすことを常としていた。
事件当日の午前中、4人は揃ってピクニックに出掛け、コテージに帰宅して後は各自部屋で昼寝をしていたが、ティータイムになってもトンプソン氏は姿を見せず、忽然と姿を消してしまったという。
以後マレーシア警察や在タイ米軍の懸命な大捜索にも拘らずトンプソン氏の行方は知れず、現在に至るも謎のままであると言う。
当地マレーシアやアメリカではこの事件は大々的に報道され、多くの推測が乱れ飛んだそうですが、当然の事に日本とは別世界のミステリー、日本のマスコミに取り上げられることは全くなかったのです。しかし、作家松本清張は何故かこの事件に興味を抱き、現地取材を敢行した後「熱い絹」を執筆していました。 この様な話を聞き、是非「月光荘」を訪ねてみたいとの希望を話すと、妹夫妻はそこへ案内してくれるとのこと。その結果2月4日(土)、妹夫妻・Kさん・私の4人は、タナ・ラタ→ブリンチャンの屋台で朝食→月光荘見学という計画を実行に移しました。(写真:丘に建つ月光荘)
月光荘は、ブリンチャンから車道を山の中に入り込み、車道脇に密林を見ながらかなり進んだ丘の上にありました。ここからはブリンチャンの街が良く見渡せます。標高差にして200メートルはあるでしょうか。建物は予想していたほどの大きさはありません。以前は建物内部に自由に入れたそうですが、現在は鍵が掛けられていて、内部は覗き見ることしか出来ません。事件発生から40数年の歳月を経てもなお、しっかと立つ洋館を飽かず眺めました。(写真:月光荘玄関側)
この事件を題材にした「失踪ーマラヤ山中に消えたタイシルク王」というすぐれたノンフィクションが存在するそうで、「熱い絹」より先にこちらを読んでみたいと思います。
再びキャメロンハイランドの日々を綴ります。
キャメロンハイランド滞在4日目の2月2日(木)、早朝タナ・ラタの広場に20数名の有志が参集。隣町ブリンチャンにある、美味しい肉まんを食べさせる屋台目指して出発しました。ハイキングと呼ぶのは些か乱暴な言い方かもしれませんが、緩やかな上りとはいえ、片道1時間以上の道のりの往復。ハイキングの様でした。
先頭を行く道案内の女性の歩みは非常に速く、この方に追いついて行くのが大変です。足には自信のある私は、その女性の足の発達した筋肉を見て興味を覚え、並んで歩きながら色々聞き出すと、毎日この5Km以上のこのコースを散策してブリンチャンの屋台に至り、朝食後再び歩いてタナ・ラタまで戻って来て、その後は読書三昧。ドイツでのバック・パックの経験もあると語ります。足の筋力が目立つのも無べなるかな。ここキャメロンで会う日本人にはエネルギッシュに活動している人が多いのです。 その彼女が先頭で到着したのが、名前は忘れましたが中国食を提供する屋台。朝早くから営業しています。この辺りで生活する人々は、食事は作るより外食にすることが多い様で、それもあってか早朝からの営業開始です。私はラーメンを食しました。スープが薄味のラーメンで、この数日間脂っこい中華料理を食べていましたから、非常に有難い味で、お値段は2リンギット(52円)。おかゆは食べませんでしたが、これも2リンギットほど。名物の肉まんは5キロメートルもの距離を歩いて食べにやってくるに相応しい味。キャメロンハイランド滞在中で一番印象に残る食べ物でした。(写真:屋台中心のお店)
(シンプルなラーメン) 翌2月3日(金)、この日がキャメロンクラブ山岳部主催のハイキングです。早朝8時過ぎ、広場に23名が集合。山岳部の方からの印刷物や地図が配布され、諸注意の後入念な準備運動でいざ出発。目指すは標高1551mのプーダー山です。今回の登山は初心者入門的山登りで、高低差もあまりありません。狙いはキャメロンハイランドの自然に慣れる事と密林初体験にありました。一番大事な注意点は列から離れ密林に迷い込んでしまわないこと。過去に遭難騒ぎとなって地元に迷惑を賭けた例もあるらしく、それもあってか歩みはゆったりとして、頂上までの1時間半の間に2回ほど休憩を入れました。(写真:入念な準備運動)
10時15分、山頂到着。遥かかなたにブリンチャン山は望めますが頂上は雲の中。有名な”月光荘”の屋根が見渡せます。(この月光荘では、タイのシルク王と呼ばれたアメリカ人大富豪ジム・トンプソンの失踪事件が起こり、松本清張は”熱い絹”と題するミステリーを書きましたが、それについては次回のブログで)。(写真:山頂で憩う人々)
下山途中、現地人の住むとある村を通ると、翩翻と色取り取りの洗濯物が翻ります。現地人の姿は見えねど、彼らの日常生活を垣間見た様な気がして、現地人が身近に感じられました。
この日は2時間10分の徒歩で、タナ・ラタへと戻って来ました。(写真:下山途中にあった現地人の集落)
3月4日(日)の日経新聞朝刊に、「鉄塔家族」で大仏次郎賞を受賞した佐伯一麦が「震災と歌枕」と題する一文を寄せていました。初めて知った事柄で、非常に興味を持って読んだ記事内容をまとめてみました。
≪仙台市の北隣に、人口6万人余りの多賀城市がある。東日本大震災では津波による被害も大きかった。その住宅地には「末の松山」という歌枕がある。
”君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波もこえなむ”(905年奏上の東歌)
”ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは”(百人一歌に取られている清原元輔の歌)
などをはじめとして、「末の松山」は多くの歌人たちに詠まれ、反語的な表現もあるが、いずれの歌も、末の松山を波が越すということは起こりえないとの意で用いられている。
869年の貞観津波の際に、陸奥国府の置かれていた多賀城近くの小高い丘の上の末の松山だけは波が超えなかった、との口伝えの噂が都人の耳にも聞こえ、それが歌枕の故事となったのではないか。
今回の津波でも、波は「末の松山」を越えなかった。その麓近くには芭蕉が同じく『奥の細道』で歩いた歌枕「沖の石」があるが、こちらには津波が押し寄せた。
慶長三陸津波の78年後の1689年に芭蕉は多賀城を訪れて、古人の心を想っては哀傷の思いを深めた。芭蕉にとって、旅に出て歌枕を訪ねることは、厄災のなかで生きた古人たちの心へつながることだったのだと、いまにして改めて思われる≫と綴り、
≪今回の震災によって、古の歌枕を改めて再認識させられると同時に、陸前高田の奇跡的に唯一残った松のように、新たな歌枕も生まれるかもしれない。だが原発事故の被災地が歌枕となることは考えにくく、それも原発のやりきれなさを象徴しているのではないだろうか≫と結んでいる。
従来から、文献研究者には存在が知られていた貞観地震はマグニチュード8.3以上と想定され、それに伴う巨大津波の甚大な被害の様子は、口伝で京にも伝えられた。都人が、当時の鄙なる地多賀城の末の松山を歌に登場させるほどの強烈な言い伝えだったと、私にも理解出来たのでした。
3月7日(水)、新橋演舞場で三月大歌舞伎「佐倉義民伝」を観て来ました。
今までに”義民佐倉惣五郎”の話は書物などを通して何度か読んだことはありましたが、映画や演劇・歌舞伎などでヴィジュアルに観るのは初めてのことです。頂いたチケットは前から3番目の席で、期待を膨らませ新橋演舞場へと足を運びました。
3月大歌舞伎の夜の部の演目は次の3つ
1・佐倉義民伝
2・唐相撲
3・小さん金五郎
佐倉義民伝で下総佐倉の名主木内宗吾を演じる松本幸四郎の渾身の演技が一番印象に残りました。
時は承応2年(1653年)、所は下総佐倉。名主木内宗吾は不作と、領主堀田上野之介の過酷な課税に苦しむ農民を救おうと、死罪覚悟で将軍への直訴を決意し、家族に別れを告げる為密かに帰国します。印旛沼の渡し場では、宗吾詮議のため、夜の渡し船が禁止されています。そこへ事情の知らない宗吾がやって来ます。ここから幕が開け、物語が始まります。
1幕目の場面は渡し小屋。宗吾の覚悟に感銘した渡し守甚兵衛(配役左團次)は、自らの危険をも顧みず、舟を繋いでおいた綱を鉈で切り捨てて舟を出します。そこに至るまでの、二人の相手を思いやる気持ちが伝わって来る場面です。前から3列目、二人の表情がはっきり見え、思わず二人の思いやりに感情移入し目頭が熱くなります。自らの命を捨ててまで、恩義ある宗吾を助けようとする、老いた甚兵衛を演じる左團次がはまり役で、これまた良いのです。
漸くの思いで我が家に辿り着いた宗吾。福助演じる妻おさんに離縁状を用意していました。直訴後の災難が家族に及ばないようにとの配慮です。それに気が付き、運命を共にしようとする妻おさん。この芝居の最大の見どころです。
場面は暗かった佐倉から一転、紅色まぶしい上野寛永寺へ。4代将軍家綱へ直訴する場面です。漸く思いを果たす宗吾。ここで幕となりました。
史実によれば、年貢は軽減されますが、宗吾と妻おさんは磔の刑に。男子は死罪。
死を覚悟して大義に殉じた宗吾と、その思いを共有して果てた妻と甚兵衛の生き方が心を打ちます。