戦後の安全保障政策を大転換する法案が9月19日未明、参議院本会議で、自民・公明両党などの賛成多数で可決され、残念ながら安保関連法案は成立した。憲法違反の疑いが濃厚で、多くの国民の理解が得られず、日増しにその法案への不安が高まる中で。しかも強行採決がなされて。 9月18日(金)、参院本会議での採決が19日未明になるとの情報を得て、23時に自宅を出発し国会へ向かった。19日(土)午前0時過ぎ、衆議院第二議員会館前に到着。その付近で3つの団体が抗議行動を行っていた。一つは「総がかり行動実行委員会」、一つは「SEALDs」、もう一つは不明。この時刻にも「都高教」の旗は掲げられていてそれを目印にした。そこには藤野委員長と執行委員まだいらして、「退職者会」の旗は、この集会の皆勤者安藤夫妻が掲げていたが、既に帰られとのこと。兎も角知っている方がいると一安心するのだ。
私が座った目の前でシュプレヒコールの発声がなされ、私は初めてその人の素顔を知った。若い女性が拳を振り上げ「戦争法案 今直ぐ廃案」と発声し、多くの声がこれに続いた。今回初めて使われたフレーズは「野党 頑張れ」・「野党と共に闘うぞ」の声。この言葉がその時の状況を一番雄弁に物語っていた。
シュップレヒコールが終わると、本会議での様子が報告された。法案反対の意見表明の際「国会を取り巻く人々の声に励まされ、院外と院内が連携して闘いが進められている」旨の発言もあったとの報告もあった。シュプレヒコールと報告と休憩が交互に繰り返され、時が流れていった。
(写真:発声の女性。この夜使用のカメラ、動く人物が上手く撮れず。静止場面は残念) 2時頃私はトイレに行きたくなり、場所を藤野さんに聞くと、面会所内と教えられ、道路を挟んで反対の建物に入っていくと、そこにはテレビが設置されていて、最後の投票者が登壇したところだった。それは山本太郎氏であったかも知れない。用を足して再びテレビの周辺に立つと、それでは開票してくださいの声に従い開票が始まり、議長は「・・・。以上に因り本案は成立しました」と発言。偶然にも私は、成立瞬間を生で見たことになった。時計を見ると2時18分だった。(写真:開票直前の映像。面会所内のテレビ)
55年前の18歳のとき、1960年6月19日に、私は10万人のデモのひとりとして、新安保法案の自然成立の瞬間時に、国会議事堂前に立っていた。その時の首相はA戦犯岸信介で、そして現在はその孫が首相という巡り合わせ。 「総がかり委員会」まで戻ってくると再度抗議のシュプレヒコールが始まっていた。そこへ民主党幹事長代理福山哲郎氏が到着。「力及ばず申し訳ありません」と謝ったが「そんなことないぞ」の声。共産党参院議員団全員も挨拶に来た。社民党は党首と又市氏。どの挨拶も「形式的には敗れたが、今次闘争では院外と院内の画期的連携が出来上がった。これをバネに今後廃案への闘いの一歩にしましょう」旨を述べていた。私は福山哲郎議員と共産党の女性議員と握手。3時少し前に「総がかり委員会」は解散。(写真:挨拶する共産党議員)
(挨拶する吉田党首。右又市議員)
始発電車を待つのではなく、徒歩で自宅へと歩き出した。徒歩2時間かかって帰宅は5時少し前。ラジオ体操はこの日は久しぶりにサボってしまった。