マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

安全保障関連法案 成立。無念!

2015年09月19日 | 闘い

 戦後の安全保障政策を大転換する法案が9月19日未明、参議院本会議で、自民・公明両党などの賛成多数で可決され、残念ながら安保関連法案は成立した。憲法違反の疑いが濃厚で、多くの国民の理解が得られず、日増しにその法案への不安が高まる中で。しかも強行採決がなされて。

 9月18日(金)、参院本会議での採決が19日未明になるとの情報を得て、23時に自宅を出発し国会へ向かった。19日(土)午前0時過ぎ、衆議院第二議員会館前に到着。その付近で3つの団体が抗議行動を行っていた。一つは「総がかり行動実行委員会」、一つは「SEALDs」、もう一つは不明。この時刻にも「都高教」の旗は掲げられていてそれを目印にした。そこには藤野委員長と執行委員まだいらして、「退職者会」の旗は、この集会の皆勤者安藤夫妻が掲げていたが、既に帰られとのこと。兎も角知っている方がいると一安心するのだ。







 私が座った目の前でシュプレヒコールの発声がなされ、私は初めてその人の素顔を知った。若い女性が拳を振り上げ「戦争法案 今直ぐ廃案」と発声し、多くの声がこれに続いた。今回初めて使われたフレーズは「野党 頑張れ」・「野党と共に闘うぞ」の声。この言葉がその時の状況を一番雄弁に物語っていた。
 
シュップレヒコールが終わると、本会議での様子が報告された。法案反対の意見表明の際「国会を取り巻く人々の声に励まされ、院外と院内が連携して闘いが進められている」旨の発言もあったとの報告もあった。シュプレヒコールと報告と休憩が交互に繰り返され、時が流れていった。
(写真:発声の女性。この夜使用のカメラ、動く人物が上手く撮れず。静止場面は残念)






 2時頃私はトイレに行きたくなり、場所を藤野さんに聞くと、面会所内と教えられ、道路を挟んで反対の建物に入っていくと、そこにはテレビが設置されていて、最後の投票者が登壇したところだった。それは山本太郎氏であったかも知れない。用を足して再びテレビの周辺に立つと、それでは開票してくださいの声に従い開票が始まり、議長は「・・・。以上に因り本案は成立しました」と発言。偶然にも私は、成立瞬間を生で見たことになった。時計を見ると2時18分だった。(写真:開票直前の映像。面会所内のテレビ)

 55年前の18歳のとき、1960年6月19日に、私は10万人のデモのひとりとして、新安保法案の自然成立の瞬間時に、国会議事堂前に立っていた。その時の首相はA戦犯岸信介で、そして現在はその孫が首相という巡り合わせ。






 「総がかり委員会」まで戻ってくると再度抗議のシュプレヒコールが始まっていた。そこへ民主党幹事長代理福山哲郎氏が到着。「力及ばず申し訳ありません」と謝ったが「そんなことないぞ」の声。共産党参院議員団全員も挨拶に来た。社民党は党首と又市氏。どの挨拶も「形式的には敗れたが、今次闘争では院外と院内の画期的連携が出来上がった。これをバネに今後廃案への闘いの一歩にしましょう」旨を述べていた。私は福山哲郎議員と共産党の女性議員と握手。3時少し前に「総がかり委員会」は解散。(写真:挨拶する共産党議員)


 (挨拶する吉田党首。右又市議員)

 始発電車を待つのではなく、徒歩で自宅へと歩き出した。徒歩2時間かかって帰宅は5時少し前。ラジオ体操はこの日は久しぶりにサボってしまった。


 


久しぶりの懐石料理

2015年09月16日 | お気に入りの店

《大志満入口)
    

 9月15日(火)17時30分から新宿にある小田急ハルク8階の「大志満」で懐石料理“加賀御膳”を食した。集いし人は、向丘高校の元同僚島田さんと田中さんと私。この3人ではよく食事をしたり、温泉旅行に出掛けたりしていたが、この数年は会うことが珍しくなり、2年振りの再会であり懐石だった。久しぶりに会うのだからと奮発して懐石料理で一献とあいなった。(写真右:加賀御膳)


 話題は勢い安保法制となった。話に夢中となっていたので、じっくり“御膳”を論評するような食事にはならなかった。そこで今回は食の話は端折ることにします。
 島田さんと私は前日に、場所は違うが国会へ出掛けていた。田中さんは国会で座り込みを終えた後の参加だった。島田さんからは、この会を終えてから3人で国会へ行きましょうとメールが来ていた。さすがにそれは止めてもらい、16日(水)に国会正門前で会えたら会いましょうということになった。安保法制に対する思いも、その阻止闘争への位相も3人ともほぼ同じ。安倍政権の酷さに話が集中した。野党議員の質問にしっかり答えられない安倍首相。その場面を報道ステーションははっきり放映していたが、紋切り方の、綺麗ごとしか放送しないのがNHK。マスコミ批判も多々あがった。


 島田さんとは35年のお付き合いになる。思い出すことは数々あるがカードゲームのコントラクトブリッジとバドミントンが思い出深い。彼女はコントラクトブリッジなるものを向丘高校で広め、私は彼女と組んで四谷のブリッジセンターで行われた大会に参加したこともあった。向丘高校では、一時バドミントンが流行っていたが、彼女のドロップショットには苦しめられたな。仲間7・8人で行った雲ノ平山行に彼女も参加し、折立から新穂高温泉まで縦走したのだから、彼女も含め皆若く、体力があったのだ・・・。現在は「常盤台の景観を守る会」の中心メンバーとして”まちづくりニュース”の発行などで活躍している。

 田中さんと初めて会った日は多分1979年4月7日。私が向丘高校へ初出勤の日。彼女は育休明けての初出勤の日で、手に同僚へのお土産を抱え、私のすぐ前を歩いていて校門に入っていった。神田上水の石樋が発見され、工芸高校前の地下現場を見学に行ったこともあった。職場が組合の指示通りの行動提起できない状況を何とか変えようと、ストライキ完全実施の修正案を出したが、賛成者は僅か3名。その一人が彼女で、言わば戦友だった。袋田温泉には彼女も私も子連れ参加だった。現在は積極的に海外に出掛けている。

 彼女達お二人も含め5人で北穂高に登ったことがあった。北穂高から涸沢岳を経て奥穂高への稜線縦走。今思えば無茶なことを強いてしまったなとも思うが、涸沢でテントを張り、そこから眺めた素晴らしい紅葉は一生忘れられない風景だ。

 定年後は3人だけで行った温泉も多い。島田さんは質の高いサービスを求める傾向が強かったので、その分値の高い宿が多くなった。菅平山麓にある「仙仁温泉」や「たてしな藍」は2万円台。熱海伊豆山の「蓬莱」は4万円台で、今では考えられない宿泊をしたこともあった。
 その蓬莱は、星野リゾートの「界 熱海」にリニュアルされ、蓬莱と星野の共同経営となった。星野が経営に参加となればそれなりに素晴らしい姿に生まれ変わったとは思うが、江戸時代からの老舗旅館の一瞬を私たちは味わったこととなる。
過去の羽振りの良かったときに色々と貴重な体験をしたものだと思う。
 コーヒーショップで酔いを醒まし、21時過ぎ新宿を後にした。


ラジオ体操に異変が

2015年09月14日 | 身辺雑記

 秋祭りの季節である。私が毎朝顔を出す富士神社には「神明西町会」と「富士前町会」の祭用テントが張られ、御神酒所となっている。この数日間は、何時ものような位置でラジオ体操は出来ない。神明西町会のテントの前に前立が立ち、ラジオ体操は開始されるが、張られた幾つかのテントに遮られて前立が見えない場所でラジオ体操を開始する人もいる。ただ会場に置かれた何台かのラジオから流れる音声を頼りに、あるいは周りの人の動作に合わせて、体操は滞りなく進み終了する。







 
  (富士神社境内に張られたテント)            (この看板が目印)

 しかし、9月12日(土)は異変が起こった。5時49分に東京湾を震源とする地震が発生したのだ。一昨日の地震は揺れが大きく都心では震度4、調布では震度5弱であったそうな。三々五々集まってきていた人々の会話は朝の地震の話で持ち切りであった。ところが6時半になってもラジオ体操の放送は始まらない。そういえばこのような、大きな自然災害が発生した時は、災害情報が放送され、ラジオ体操の放送は中断されたり中止されたりするのであった。
 暫くどうしようか迷った瞬間があったが、前立の人などから、ラジオ体操を始めましょうよと声が掛かり、神明西町会のテントの前に前立が立ち、ラジオ体操は開始された。ただ何時もの様な音声は流れて来ない。「真ん中に集まりましょう」との声が掛かり、多くの人達が広い空き空間を中心に前立が見える位置に近寄ってきた。誰ともなく「1・2・3・4・・・・」の声もかかり、ラジオ体操は流れ始めた。(写真:数日はこのような場所でラジオ体操が行われた)

 私は元教員、それ故か大きな声が出る。周りの声がやや小さくなり始めたので、より大きな声を出し、体操はスームースに進んでいった。第一体操が終わると、上野さんから「首の運動もやりましょう」と声がかかり、首の運動も終え、第二体操が始まった。
 第二の終わりから数えて3つ目に“両足飛び”がある。ここで私はドジった。それまでの体操と同じように「1・2・3・4・5・・・」と声を出したが、皆の動きとは合わない。オカシイなと思っているうちにこの体操は終わり、“手足の運動“に移行する段で、漸くその運動に合わせて発声を変えた。
 体操が終了すると、上野さんが私のところにやってきて、「両足飛びは3拍子なのよ」と実演をしてくれた。そこで私は初めて第二体操の両足飛びは3拍子であることに気が付いたのであった。

 いつも、ラジオ体操が終了すると拍手が起きるが、一昨日は異変にも拘わらず自分たちの力で無事終了したからか、その拍手がいつもより大きく感じられた。

 御祭も無事終了した。私のお役目は半纏係りだがこれも無事終了。皆で飲み交わすビールは美味しかった。

 
   (巡幸へ出発直前)                        (御神酒所前で)


   (お隣さんの神明西町会の御神輿)

 

 


「うらめしや~冥途のみやげ」展を観る

2015年09月11日 | 映画・美術・芝居・落語

 9月上旬のある日、上野の東京芸大美術館へ「うらめしや~冥途のみやげ」展を観に行って来た。冥途へ行って、こちらからのお土産に珍しいものの見聞やら怖い体験をお聞かせする必要があるならば、そろそろその準備をしておかねばならないだろうと、果たして芸大展でオミヤが得られるか否かはさておき、前売りも買ってあったので妻と二人出掛けたわけ。

 目玉は2つあった。全生庵の圓朝コレクションと松園の「焔」。
 谷中・全生庵には怪談を得意とした噺家圓朝ゆかりの幽霊画が50幅所蔵されているそうで、展示の前期(7/22~8/2と8/4~8/16)、後期(8/18~8/30と9/1~9/13)で全作品が展示される。私達が行ったときの後期(更にその後半)には26幅が展示されていた。
 その多くの絵は掛け軸でモノクロが中心。作者不詳の絵が多い。明治期に入って、幽霊画の人気が廃れ、幽霊画の駆け込み寺が、円朝ゆかりの=幽霊ゆかりの、全生庵であったのかと、全生庵が聞いたら怒りそうな感想を抱いてしまった。
 幽霊はもともと人間でありながら”うらみ”を抱きつつ、成仏できずにあの世へと旅立っていった元人間が現世に現れるもの。その怨念は眼にこそ顕れるだろうと、私はどの幽霊も眼を中心に見た。うらめしき眼でこちらをじっと見つめる幽霊画もあればそうでないものもありで、怖くは感じない。恨まれる心当たりのない人間には当たり前か。これでは冥途の土産にはならないなと思いながら次のコーナーへ。

 コーナーⅢとⅣは葛飾北斎・歌川国芳・河鍋暁斎・曽我蕭白・月岡芳年・上村松園など、美術史上に名をなした画家たちの幽霊の競演といった趣。モノクロ調から一転カラフルな展示に。私は特に曽我蕭白の「美人図」が気に入って絵葉書を購入。これは幽霊だろうか?脚の辺りの紅いものは長襦袢か。何か不気味な雰囲気が漂い気持ちが悪い
。(写真は下図左側)
 ここの目玉は松園の「焔」。松園を鑑賞したのは5年前の「東京国立近代美術館」で、その時の入館が後期の部で、「焔」は前期に展示されていて、観る機会を逸していたから初めてのご対面で、5年前の駄文には、その時展示されていた記述を基に『感情など、内面の表現に苦悩した時期があり、その時期の代表作が「焔」』と書いていた。物の怪となった六条御息所を題材にして、そこに自分自身を重ね併せたのだろうか。見事な絵で、この絵は冥途の土産になるか?(写真は下図右側)

 問題は「焔」の展示期間が9/1~9/13に限られていたこと。この展示のポスターを観て、何時でも鑑賞できると思って前期に行ってしまっていた妻の友人もいた。それこそ”うらめしや~”。
 観終わって出口へと向かう私達は、源氏の会の水越ご夫妻とお会いした。突然に”うらめしや~”と言われ、その日一番ビックリしてしまった。

         
  蕭白の美人画     松園の焔
 

 


八月納涼歌舞伎より「逆櫓」

2015年09月09日 | 映画・美術・芝居・落語

 8月歌舞伎座「納涼歌舞伎」の第二部は「京人形」と「ひらかな盛衰記」。二部の演目の中心「ひらかな盛衰記 逆櫓」を観るのは初めてだったので少し下調べをしてから出掛けた。

 「
ひらかな盛衰記」のネット上の説明では、次の説明が要を得て一番分かりやすかった。≪『平家物語』・『源平盛衰記』等を題材とする浄瑠璃の代表的作品の一つ。木曾義仲とその遺児・遺臣の物語を中心に、梶原源太をめぐる逸話を加えて構成されている。好評のため、歌舞伎にも移され、三段目「松右衛門内」から「逆艪」の段がしばしば上演される・・・≫と。 
 
その「逆櫓」の主人公の船頭松右衛門を演じるのが中村橋之助。NHK大河ドラマの毛利元就役で初めて橋之助を観たのはもう18年も前のこととなる。いかにも歌舞伎役者といった顔立ちで、30歳前半という若さだった。その後一昨年立て続けに新橋演舞場で2本観た。『元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』と『男女道成寺』ではその存在感が際立っていた。

 さて
 「逆櫓」の前半の筋立ては入り組んでいるので、はしょる事とします。摂津国に住む船頭松右衛門は、逆櫓(船をバックさせる事。又はその装置)という船の操作術使いの名人権四郎(坂東彌十郎)家へ、密かな目論見があって入婿しています。実は松右衛門は、義経に討たれた義仲の遺臣樋口次郎兼光(今井兼平の兄)で、亡き殿の仇を討たんと機会を狙っての事でした。

 今やその技をマスターした松右衛門のもとへ逆櫓の技術を教えて欲しいと若い衆4人がやって来ます。訓練を終え陸に上がったとたん、若衆たちは松右衛門に襲い掛かかり、激しい闘いが始まります。松右衛門の“面は割れていた”のでした。各々手にするのは船を漕ぐ櫓です。(写真:左橋之助、右権四郎役の坂東彌十郎)

 イヤホンガイドは逆櫓の説明に時間を費やします。技術的な面は、実際に観るほうが良く分かります。船をバックさせるために櫓を普段とは逆に、支点を船の前方にも置いて漕ぐのです。
 義経が摂津国の渡邊津に軍を進めたときの軍議で、梶原景時は、「船のへさきにも櫓を付けて、どの方向へもたやすく転回出来るようにしたい」と“逆櫓”を進言します。それに対して義経は、「はじめから逃げることを考えては縁起が悪い」と景時の意見を退けた。・・・この辺のくだりは『平家物語』で読んではいましたが、全く忘れていて、イヤホンガイドが有難いことです。


 閑話休題
 さて切り合いは刀ではなく櫓です。全て様式化された絡み合いで、やはり立ち回りが観ていて一番楽しい場面です。癇筋(かんすじ。隈取の一種)をした橋之助の面構えが堂々としていて風格を感じます。最後は捕らえられ縄を掛けられ消えてゆく橋之助に、大きな大きな拍手が湧きました。