マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

ウラムの螺旋

2016年09月20日 | 数学

 最近、東野圭吾作『危険なビーナス』を購入してしまった。新聞の一面全てを使って作品の冒頭部分が紹介されていて、その文章に触発されオンライン予約するも、予約300番台。やむ無く購入することとし、ヤマダデンキのポイントを利用して池袋総本店内書店で購入した。

 残念ながら期待するほどのミステリーには仕上がっていなかった。しかし、主人公の義理の叔父が数学の大学教授で、主人公に数学の話を語る場面が幾つかあり、その中に私の知らない話も登場していた。数学の話を綴りだすと碌なことは無い。数学を学んで来たのにそんなことも知らなかったのかと思われたり、言われたりするのがオチである。しかし、たまには数学の話。④は知らなかった話題で、珍しくしく”目に見える数学”と思え、敢えて綴る次第。

 ①教授が「クラスの児童数が40人なら、誕生日が同じだという者が二組ぐらいいても少しは不思議ではない」と語る場面がある。より正確には”児童数が40人のクラスで、少なくも1組同じ誕生日の者同士がいる確率は89%”。私も授業ではこの事実を利用して脱線し、生徒諸君が面白がるゲームを何回かしたことがあった。
 ②この作品の主要部分の基を為すのが『フラクタル図形』。ある図形の断片を取ってきたとき、それより小さな断片の形状と図形全体の形状とが相似である図形をフラクタル図形と言うのだが、なんのことか予測不能の表現かもしれない。右写真の図形がその1例

 
教授は「リーマン予想」をも語っていた。リーマン予想は数学上の未解決の問題の一つで、クレイ数学研究所は「リーマン予想」の解決者に100万ドルの懸賞金を支払うことを約束している。「フェルマーの定理」が解決された現在、今世紀の最難問の予想と言われている。作品上にこの予想を登場させたのは著者東野が大学で理系を学んだ強みか。
 以上の事柄は既知の事柄であったが④の「ウラムの螺旋」は未知の事柄であった。数学上の問題を可視化できる貴重な話かと思い、ここに紹介。


 
ウラムの螺旋。
 
先ずは具体的に。図1~図3の様に、自然数を1から順に螺旋状に書いていく。最初の出発点の1は赤にした。その横に2,その上に3、その横に4という具合だ。更に5・6・7・・・・と続けていく。図3では49
で止めたが、どこまででも続けることが可能だ。











 適当なところで止めたら図4の様に素数にのみ青色を塗る。そうすると何が見えるか?長方形の対角線上に素数すなわち青色点が多数現れるのだ。(素数でないもの現れる)






 私は遊び心で、出発点を1の代わりに11を選び、ウラムの螺旋を作ったものが図5で素数を青色で塗った。右上101から左下121の、左下がりの対角線上に多数の素数が現れている。


 
1963年に数学者スタニスワフ・ウラムによって発見された事柄で、一般的には上記の様に螺旋上に自然数を配置した“ウラムの螺旋”では特別の直線上に素数がより多く乗ってくる。





 より可視的にするならば、素数を黒く塗り、素数ではない数は消してしまう。右はその様にして、1089までの自然数からウラムの螺旋を作成したもの。素数における規則性は発見が難しいものだが、ウラムの螺旋の直線からは規則性が見てとれる。その規則性の強い部分を応用して新しい素数の発見に使用される可能性があると言われている。
 
ウラム氏は、とある学会の研究講義を聴いていて退屈なので、上の様な遊びをしていた時に発見したという、伝説も伝えられている。


『家康、江戸を建てる』を聴く

2016年09月18日 | 読書

 タイトルを書き間違えたわけではない。『家康、江戸を建てる』の著者門井慶喜氏の講演を聴いてきたので、少しひねって書いてみた。916日(金)14時からシビック小ホールで開催された、アカデミー文京主催の特別公開講座「著者が語る、『家康、江戸を建てる』」に妻と参加してきた。

 著者の門井氏は、推理小説作家として出発したが、この春上記の歴史本を出版。それがベストセラーとなり直木賞候補ともなった。最終選考には『海の見える理髪店』とともに残ったが、「歴史の解説本を読んでいるようで、家康の人間像が頭に浮かんでこない」との意見も根強く受賞を逃した。私はこの本をオンライン予約の到着を待ちきれず購入し一気に読んでいた。
 NHK大河ドラマ『真田丸』にも登場していたが、秀吉と家康の“関東の連れ小便”で、関八州に移封を命じられた家康は、作品上では家臣団の猛反対を押し切り江戸に移り、そこで次々とプロジェクトを展開する。全部で5話からなる作品では、利根川の東遷、慶長小判、神田上水、江戸城石垣、江戸城天守閣が取り上げられていた。その中では取り分け、利根川の東遷と神田上水を面白く読んだ。
 その門井氏の講演会開催を知り、講演希望を申し込んでおいたところ妻共々に受講の知らせが来て、聴きに行ってきた。
 著作そのものに詳しく触れることは後日に回し、今日は以下、講演での門井氏の話の内容。(写真は主として講演前に舞台スクリーンに映し出されていたもの)
 名前は徳川慶喜(よしのぶ)と同じく“よしのぶ”と読む。幼少の頃はこのアンチヒーロと同じ名前が嫌で堪らなかった。それが、大河ドラマ「徳川慶喜」を見て以来慶喜の名前が嫌ではなくなった。


 秀吉の命での国替え、家康の本心はしぶしぶだったと思う。結果的には成功であったが、江戸は大変な土地で、開発に相応しい土地だったと後の人は言うがそれはウソ。その頃の関東平野は幾つもの川が北から東京湾方向へと並行して南下する流れで、極端な“綾瀬”だった。実はこれが利根川東遷には幸いした。(写真:右の図の様に関東平野は何本もの川が東京湾に注いでいた。この様な状態を門井氏は”綾瀬”と呼んだ)

 武蔵の國の中心は府中にあった。江戸とは文字通り、府中からみて海の端という意味で、草茫々としていた。現在の江戸城辺りは太田道灌が整備して人は集まる様になったが、あくまで戦闘基地で、町並みが開けない理由は利根川にあった。その利根川を、関東平野が綾瀬だったことを上手に利用して、何度かに分けて流れを曲げる付替え工事を行い、南下していた利根川を次第に東へと移し替えていった。江戸湊に注いでいた利根川を、今に見る如く太平洋へと流路を変えてしまった。これが東遷事業で、担当者は甲斐の国の出身。当時甲斐は治水の先進地だった。
 東遷完成は50年後の家光の時代。綾瀬という南下する何本もの川があったから、順々に東へと流れを変えられた。江戸時代の町作りは東京湾の潮位の高低差が少ないことも幸運だった。潮が満ちてきてもせいぜい汐留で止まった。

 玉川上水は玉川兄弟の功績となっているが、資料がなく本当のところは分からない。という理由もあり玉川上水では無く、神田上水を取り上げた。飲料水用の水を求めて、遠く西にある井之頭から水を引っ張ってきた。市内に入ると暗渠にしたが、市内直前では流水量調節の必要があり、水のプールを作り、水門を板で調節した。その跡が現在関口と呼ばれるところに残っている。なお神田川の上流で水量を増やすために妙正寺川との合流が不可欠だった。その地点は現在落合と呼ばれている。
 思うに江戸ほど人工的な町はない。自然と共生なんてできる訳がない。江戸の時代に「近代」を建ててしまったのだ。

 講演はまだ続いたが、主要な部分は以上なのでこれ以下は割愛します。


  
         (大手門)                            (天守閣跡)


姫川沿いを歩く

2016年09月16日 | 信濃紀行

 もう3週間ほどが過ぎてしまったが、825日(木)の早朝、白馬ハイランドホテル主催の「朝の散策」に参加した。
 
この散策で私は日本の原風景といっても過言ではない景観に巡りあった。

 朝620分にホテル玄関前に集合し、1時間ほどの散策後朝食前に宿のバスで帰ってくるという企画だった。ここの宿には4泊目で、それまでは一人で周辺を彷徨っていたが、案内して貰う散策も又良いだろうと思っての参加。17人~18人と意外に多くの宿泊客が集った。
 宿は国道148号線を挟んで、長野オリンピックで使用されたジャンプ台と反対側にある。晴れた日には白馬三山や八方の眺めが素晴らしいという。まず案内されたのが、その白馬の展望台。この日も山には霧がかかり展望は叶わなかったが、展望は夏よりも冬が一番とのこと。前景の田圃に水が張られ田植え寸前時には逆白馬が見られ、ここはカメラマンが多く集う場所との話もあった。
 台地を下ると姫川。白馬村親海湿原の湧水を源流とし日本海に注ぐ全長60kmの河川。標高2,000mの山並みから60kmの流路で海まで落ちて行く。当然、急峻な流れながら、水質はランキング日本一に4回も輝いている清流。橋から上流を眺めると急流とは見えなかったが、その日、下流に向かって歩み出すと、暴れ川であることがよくわかった。(写真:暴れ川姫川)






 最初に到着したのは、清流を活用しての養鱒場だった。そこでは清き水を利用して、シナノユキマスと信州サーモンが養育されていた。マスはポーランド原産のサケ科コレゴヌス属で、長野県水産試験場が世界で初めて完全養殖技術を開発したとの説明があった。雪の様に白く、長野県特産を強調する為に、信濃雪鱒(シナノユキマス)と名付けられたそうな。






 次に向かったの姫川に架かる大出吊橋。近辺には茅葺の古民家があり、端正な佇まいの集落があった。(写真:大出の古民家)

 

 
         (大出吊橋)



 更に案内して貰ったのが大出公園。ここからの展望も叶わなかったが、天候に恵まれれば、姫川の向こうには北アルプスの雄姿や白馬三山が正面に見渡せるそうな。花の季節や紅葉の時にはより見事な風景となる。この風景は白馬村の中でも屈指の景観として内外から写真撮影や写生に多くの人が訪れるそうだ。村落があり、清流があり、その向こう雄大な山波がある。これこそ日本の原風景と思った。近々にここを再訪しようとの思いが私の頭の中で動き始めた。(写真:晴れていれば大出公園から拝める風景)

 
          (春の大出公園)
       


  
       (再掲:大出吊橋)                (朝の散策に参加した人たち:大出公園)

 今日の一葉(昨夜は中秋の名月)
 
    (夜11時頃にも顔を出していた)
     



「9月新派特別公演」を観る

2016年09月14日 | 映画・美術・芝居・落語

 書きそびれてしまったことが多々ある。少し時を巻戻したい。

 92日(金)新橋演舞場で“二代目喜多村緑郎襲名披露”と銘打った「九月新派特別公演」夜の部を観て来た。猿翁の弟子だった市川月乃助は歌舞伎界を去り、喜多村緑郎を襲名し、今後は新派の舞台を踏むこととなる。
 夜の部には口上と婦系図(おんなけいず)が掛かっていた。新派はそれまでに出掛けたことは無かったが、頂いたチケットの内容紹介に“婦系図”と書かれていて、主演波乃久里子と知り、これは是非とチケットを回して頂いた。
 
 今年1月の初春公演から新派に入団した月乃助は9月から緑郎を名乗ることとなった。口上には緑郎を挟んで座長水谷八重子・波乃久里子などが座り、尾上松也の姿もあった。松也と緑郎の歌舞伎界での付き合いが深かったと思わせる口上が松也から述べられ、会場から笑い声が漏れた。“熱き友情出演”と思った。松也の妹が春本由香とうい名で新派に加入したことも紹介された。口上の形式は歌舞伎界と殆ど同じだ。“隅から隅までズズイ~と、お願い申しあげます”と〆た。






  さて泉鏡花原作の「婦系図」。この舞台で演じられる筋立ての主筋は大変シンプルだ。少年の頃、掏摸であった早瀬主税(役:喜多村緑郎)は“真砂町の先生”こと酒井俊蔵(役:柳田豊)に救われ、ついにはドイツ語学者にまで成長しています。その主税、柳橋の芸者お蔦(役:波乃久里子)と所帯を持つに至り、貧しいながらも仲良く暮らしています。ところがこれが真砂町の先生はいたく気に入りません。主税と会い「お蔦と別れろ。俺を取るかお蔦を取るか」と迫ります。
 現代ならいざ知らず、明治の世には、男には私的なものよりも、義理とか人情とかの、上位に価値を置くものがあった時代。一瞬の苦悩を見せつつも主税は「別れます」と誓ってしまいます。

 見どころは、主税が別れをお蔦にどう切り出すかです。場面は夜の湯島天神境内。二人での夜の散策にウキウキするお蔦。一方ここで別れを告げねばならない主税は表情が冴えません。有名な“月は晴れても心は闇だ”の場面。遂に切り出した別れの言葉にビックリするお蔦。次第にそれが冗談ではないと知ったお蔦は、何故と問います。“切れるの、別れるのってそんなことは芸者のときにいうことよ・・・”の場面。
 
ここで私は予期せぬことに涙ぐんでしまった。一番前の席で、他の観客の姿は全く目に入らず、ただただお蔦に感情移入し過ぎてしまったのだ。立て前に自分を押し留めて諦めしまう時代の中にあったお蔦でした。主税の下を去り髪結いの世界へと去っていきます。
 先生が住んでいたのが真砂町。二人の別れの場面が湯島天神。掏摸を働く万吉(役:松也)を主税が助けた本郷の薬師は現在の本郷三丁目交差点付近。この3つの地点はいずれも現在の春日通りにあり、一本の道で繋がっていた。
 


神幸祭終わる

2016年09月12日 | 町内会

 駒込総社「天祖神社」の例大祭が910日・11日の2日間行われ、11日(日)は4年に一度の神幸祭だった。普通の年の例大祭ならば各町会は御神輿を担いで天祖神社へのお参りをする(=神輿渡御)のみだが、神幸祭の年には天祖神社の御神輿を、各町会間をリレー式で担ぐこととなる。担ぐ神輿が神社の神輿と自分の町会のそれとの二段構えとなる。
 私は富士前町会の役員となっている関係で、例大祭での役割を担うこととなり、今年も半纏の貸し出し係。富士神社の境内に設えた御神酒所で、2日間この役割を担当してきた。そのことはさて置き、今回は神幸祭について記しておきたい。



   (JRなどに掲示されたポスター)
 
 
 神幸祭が創設されたのは2000年(復活されたのかも知れない)で、今年が5回目となる。推定1.5トンはあろうかと思われる天祖神社の御神輿は大きい。普段は神殿脇の建物に格納され、毎月1日と15日にその扉が開いて、ガラス戸越しに姿を現す。
 11日の神幸祭当日には、氏子や神社の青年部などが朝4時過ぎには御神輿を宝物殿から出して、神殿前に奉ったと思われる。そこまで準備が為された上で、630分から“発輿祭”が始まることと相なる。この日の朝6時には雨が降っていたが、私は610分には神殿付近に到着。そこには多くの顔見知りの人たちがいた。(写真:氏子13町会の提灯が神社入口に掲げられている)




 程なく発輿祭(はつよさい?)が開始された。宮司によるお祓いと祝詞があり、氏子総代と思しき方の奉納儀式もあった。その後、神社の先頭を形成する方々の氏名と、巡幸時に持つ神器が同時に呼び上げられて整列。中には、天狗の面を着けた猿田彦の一段と高い姿もあった。(神殿前に置かれた御神輿)


  (宮司のみならず天狗面の猿田彦の姿も)


 7時に境内宮出しが始まった。皆白い衣装を身にまとい、気合の入った掛け声で神輿を担ぎ境内を出ていった。町会毎に10名の担ぎ手を繰り出ているとか
。実に勇壮である。神社の氏子たる町会は13町会。各町会は神輿をリレーのバトンの様に次の町会に御渡しする。決められたルートを辿り、午前中は天祖神社から文京グリーンコートまで。ここでも儀式を執り行った後昼食休憩。(境内宮出し) (渡御之図は最下段に掲示)






 午後の出発点は豊島区の霜降橋付近の「駒二新和会」。グリーンコートから霜降橋まで長い距離がある。この間を誰がどの様に御神輿を移動させるのか?私はその実態を知らなかったので大変興味を持っていた。お神酒所での仕事が一段落したのでグリーンコートに駆けつけ、その様子を見た。正解は“台車”だった。神社発行のご案内には“道中にて霜降橋へ”と書かれていた。道中とは台車移動のことだった。町会の境の曖昧なところや、担ぎ手が少なくなって御神輿の移動が難しいところは台車が使われると聞いた。(グリーンコートでの町会長たち)



 
     (道中はこの台車で)                    (若い巫女さんも登場)

 午後1440分に我が富士前町会は上富士町会から神輿を受け継ぎ、本郷通りを巡行し無事吉片町会へバトンタッチ。アンカーは宮元氏子会で、1750分には境内宮入が始まり、最後が着輿祭で、
今年の神幸祭を終了。
 あとは16日に予定されている大祭式祭典を残すのみとなった。(写真はいずれも富士前町会の面々)






  


                  (神幸祭渡御之図)