マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

江戸の鳥瞰図

2016年09月10日 | 映画・美術・芝居・落語

 立川博章氏の制作した『大江戸鳥瞰図』は高度66,000メートルから眺めた1862年の江戸時代の町並みだった。


 








 実は、江戸の町並みを鳥瞰図に描く試みは既に江戸時代に行われていた。俯瞰や鳥瞰の視点が見られる歌川広重『名所江戸百景』や、津山藩のお抱え絵師であった鍬形蕙斎(くわがたけいさい)が描いた江戸の景観図『江戸一目図屏風』がそれである。その屏風については、2010/11/24のブログにも書いたが、六曲一隻の屏風で津山郷土博物館に所蔵され、岡山県指定の重要文化財となっている。1809(文化6)年に、蕙斎が江戸の全景を詳細に描いた景観図である。(写真:江戸一目図屏風)


 東京スカイツリーが開業された2012年5月に実物大の複製パネルが地上350メートルの展望台に設置された。屏風は、隅田川のやや東寄りの上空から眺めた、江戸の眺望と考えられ、まさにその場所にスカイツリーが建設された記念であろう。(写真:展望台に設置された複製パネル)

 その東京スカイツリーの設計にかかわった立川氏が「江戸の上空から江戸を眺めたらどのような景色が描けるか」と、江戸の鳥瞰図作成を思い立ったのが2002年。2003年元旦から大晦日まで東京新聞紙上で連載されたらしいが、そのころ朝日新聞を愛読していた私は全く知らなかった。連載の反響は非常に大きく、要望に応える意味で描く範囲を拡大して最終版『大江戸鳥瞰図』が完成したのが2013年だった。彼は「制作で最も苦労したのは、武家屋敷です。わずかな写真資料や大名の残した屋敷図などに石高などを加味し、想像していきました」と書いている。
 図の
全体は1~29のパートに分けられ、1が「江戸城北部」の千代田区・新宿区・文京区・豊島区・台東区・荒川区で、私が出没する範囲が描かれている。(一番下に現在の地図と対応させて掲示)。2が「江戸城南部」、3が「浅草・本所」で、地図を見るのが趣味のような私はまずはこれらの図を大いに楽しませてもらっている。

 
実は、我が家にも一枚の鳥瞰図(右写真)がある。源氏の会の会員水越さんから頂いたもので、蕙斎のものと酷似ているが微妙な部分で違う。江戸時代に意外に多くの鳥瞰図が制作されたらしい。ただその多くは江戸の東から西を見たもので、そのころの信仰対象だった富士山が背景にくるように制作されている。立川氏のそれは全く新しい視点で描かれたもの。更に大きな違いは開国後に激変した横浜をも描いている点にある。





        (図1の左側)


         (図1左側に対応する現在図)


       (図1の右側。ほぼ中央に見える水色が不忍池)


     (図1右側に対応する現在図)



「大江戸鳥瞰図」展を観る

2016年09月08日 | 映画・美術・芝居・落語

 829日の東京新聞朝刊に次の様な記事が載った。
 「都市図画家や鳥瞰図絵師として活躍し、今年3月に82歳で亡くなった立川博章さんの回顧展が、日建設計東京ビル1階ギャラリーで開かれている。東京スカイツリーや浅草、上野一帯を描いた絵図や、江戸時代の町並みを再現した「大江戸鳥瞰図」など、緻密で迫力ある作品が並ぶ」



     (パネルに映し出された鳥瞰図)

 
江戸の鳥瞰図には取り分け興味があった。会場も我が家から近距離にあり、95日(月)に妻と出掛けてきた。会場へは三田線利用で水道橋駅下車が簡明。白山通りを進み、JR水道橋を過ぎて間もなく右折すると、首都高の向こうに“日建設計”の看板が目に入って来た。真っすぐ進むと日本橋川。「あいあい橋」を渡ると日建設計の裏側だった。東京スカイツリーを設計しただけのことはあると思わせる設計会社の、堂々としたのビルの1階に展示会場はあった。大型液晶テレビや側面パネル・平面パネルなどを用いて多数の作品が展示されていた。(写真:日本橋川に架かるあいあい橋)



 この展示で初めて知った立川氏は1933年生まれ。現武蔵野美大卒業後映画会社で美術を担当。独立後の1980年代以降は、日建建設との再開発事業などのプロジェクトで完成予想図を多く作成した。
 「鳥瞰図の数々は独自の三点透視図法を用い、正確性と緻密性で他を圧倒」と説明されていたが、残念ながらこの三点透視図法が私には理解出来なかった。ともあれ、その図法を用いるだけでなく、自らの足で写真を撮りながら各地を回って、文献や資料を参考に鳥瞰図を仕上げたそうな。
(写真:立川博章氏)



 晩年力を注いだ「大江戸鳥瞰図」は1862年の江戸を中心に現在の横浜、秩父、千葉までを一望出来る壮大な作品。最初の作成範囲では町奉行所の及ぶ範囲、すなわち、現代の千代田区・中央区・江東区・新宿区・港区・目黒区など「江戸」と呼ばれる区域だったが、描かれる範囲は拡がっていった。時代を1862(文久2)年に限定したのは、翌年に江戸城が火災で本丸が消滅し、以降再建されなかったからと説明されていた。この図はあくまで私の「想像図」ですとの断りも書かれていた。(鳥瞰図より:江戸城から東へ隅田川まで)




 大型場面に現れる大江戸鳥瞰図は迫力満点。江戸時代の画面に対して現代の想像図が対応して映し出される点が特に面白い。東京スカイツリーの設計図も迫力があった。パネル図には江戸時代の歌舞伎小屋の図も。間近で平面パネルをよく見ると、細かく武士屋敷地が描かれており、膨大な尽力が偲ばれた。(写真:右は東京スカイツリーの図。下は河原崎座の図)



   
       (隅田川図)              (1階正面のスカイツリー図)
 

 帰路は都バス「飯64」で九段下から江戸川橋を経由して関口パン店で昼食。初めて乗る都バス路線であったが、都心移動時の都バスの便利さを改めて実感した。彼の作品集は『大江戸鳥瞰図』として出版されていて、直ぐに図書館へオンライン予約。


縄文の夜神楽

2016年09月06日 | 歴史

 826日、中ッ原遺跡から縄文考古館へ行く途中JA信州に寄って自宅への荷物を発送した。その時に見たのが右のポスター。「縄文の夜神楽」と題する縄文遺産写真展だった。縄文文化の一端に触れた私は「この写真は何だろう。縄文遺産写真としてどんな写真が展示されているのだろう」と強い興味を持ち、行動予定を増やし、展示会場の「Ring Link Hall」にも回ることにした。車で回っている有り難さで、臨機応変の行動が可能だった。

 展示会場は原村ペンション群の一角にあり、現在はペンションとしてではなく各種イベントの会場として使用されているらしい、元ペンションだった。作品を眺め始めるとコーヒーのサービスがあり椅子席からの鑑賞を楽しませてもらった。程なく撮影者滋澤雅人さんが見え、作品展の概略と個々の作品について解説・説明をしてくれた。

 縄文の土偶や土器を太陽光の下で鑑賞するのではなく、焔光の如き仄かな光で照らし出して眺めると、今まで見て来た土偶や土器とは全く違ったものが忽然と出現したそうな。夢幻の妖姿の数々・・・。例えばそれは人間の顔であったり、猿の顔であったり。この玄妙な妖美に魅せられて、滋澤氏は全国18ヵ所の博物館で、平成14年秋以来大型モノクローム・フィルムで土器・土偶を撮影してきたそうな。方法論としては縄文土器・土偶を暗室で一定の光を当てモノクロ・プリントにするとか。
 そうすることにより、土器・土偶の造形美を際立たせるだけにとどまらず、雄大な「縄文」の存在を浮かび上がらることが可能になるそうな。私には理解出来ない部分もあったが、人間や猿の顔が浮かびあがってくるのは作品を観てよく理解できた。
 これらの作品を自宅でも観賞しようと写真集『縄文の夜神楽』(発行:KKエクセレント 定価2000円)を購入した。巻末の作品目録には撮影した土偶・土器の所蔵館が書かれていた。富士見町の井戸尻考古館や御代田町浅間縄文ミュージアムなど、その前を素通りした博物館も登場している。機会があればそこにも足を延ばしたいと妻と話した。

 「縄文の夜神楽展」のHPを2つ紹介します。是非こちらを訪問してみて下さい。
   http://www.yokagura.com/site/Gal/pr/ichikawa/index.htm
  http://www.yokagura.com/site/jomon/ent-1/index.htm

  (付記:写真展は9月11日まで。原村「Ring Link Hall」で。TEL:0266ー55ー5297)
   又、写真はいずれもサンプルを掲示した。
     
   (富山県埋蔵文化センター蔵)      (伊那市創造館蔵)

 


「縄文のビーナス」の謎

2016年09月04日 | 歴史

 茅野市内はもちろん、日本で見つかった殆どの土偶は壊された状態で出土しているとか。にも拘わらず国宝「縄文のビーナス」は棚畑遺跡の中央に位置する第500号土坑から、寝かせるように安置した状態で、“五体満足に”出土した。この出土状況からは、壊す意図がまったく感じらないそうで、何故壊されないままに埋められていたかは出土当初からの大きな謎であったそうな。(写真:ビーナスの右側面)
 その謎に対しては幾つもの仮説が提出されている。
 私は『国宝土偶「縄文ビーナス」の誕生』(著:鵜飼幸雄 発行:新泉社)を読んで、なるほどと思える仮説に出合った。今日は以下にその要旨を綴りたい。




 
 まずは黒曜石について話が展開する。『縄文人は食を得る手段として主に狩りをして暮らした。弓矢の先に付ける矢尻を石で作った。矢尻として、適当な堅さと強さがあり、細かな加工をする上で最適なものが黒曜石。霧ヶ峰は良質の黒曜石の原産地であつた。棚畑遺跡に隣接する駒形遺跡は、黒曜石の集散、あるいは石器製作の中心的集落であったことが分かってきた。黒曜石製品や黒曜石原材は「縄文王国」の特産品として広く関東地方や東海地方にまで流通品として伝わったに違いない』と話が進んだ後、







 『棚畑遺跡は、黒曜石の一大集散地域のなかで、枢要な拠点集落の1つであった。集落の中には大勢の人びとが集ったであろう大型住居もあった。黒曜石や石鏃を求めて、絶えず各地から縄文人が棚畑集落を訪れたに違いない。多くの人が集い、彼らの間に感謝と喜びを共有する感情が生まれたであろう。そこに「まつり」という行為が営まれ、そのシンボルとして何かが求められる・・・』。鵜飼の説はそこで一時止まっている。
 鵜飼は自説を語るに変えて、彼の考古学仲間三上徹也の意見を紹介している。
 <・・・こうした土偶が夕暮れ時、集落の中央でかがり火に照らされ、浮かび上がる姿を見た人々の興奮を推し量ることは容易である。そこに集まった人々は、棚畑遺跡をはじめ近隣の集落の者や、甲府盆地から松本平に及ぶ広範囲からの縄文人であった。何のために人々は遠くから集まったのか。連帯の確認・情報や物資の交換・豊饒祈願や感謝の祝いもあったかもしれない。しかし、男女の出会いの機会であった意義が一番であった気がしてならない。・・・
>(写真:上は棚畑遺跡出土の黒曜石の石鏃など。下の写真は棚畑遺跡からの黒曜石供給ルート)
 
 古代日本の風習であった歌垣に相当する「まつり」
のシンボルとして「縄文のビーナス」を見ているわけである。
 『その点でビーナスは多くの土偶とは異なる。象徴は壊されることなく最後まで大切にされ、手厚く埋納されたのだ』と鵜飼は結んでいる。


縄文文化に触れて(尖石遺跡・縄文考古館・縄文のビーナス)

2016年09月01日 | 歴史

 私たちが蓼科の別荘を購入してから21年になった。以来幾度となくこの地を訪れ、蓼科や八ヶ岳山麓に遊んだ。その美しく豊かな自然に接しながら、今から5000年前にこの地に豊饒な縄文文化が繁栄していたことは殆ど知らなかった。尖石遺跡はそうした八ヶ岳山麓の縄文文化を代表する遺跡で、八ヶ岳の西山麓の標高1080mの台地にある。八ヶ岳から諏訪湖にかけて“縄文王国”があったのだ。何度となくその近辺を通りながらこの遺跡を訪れたことはなかった。別荘を壊すことになった後に、この地を再訪したくなるものに巡り合ってしまったのも運命の皮肉か。(八ヶ岳西山麓)


(赤い印が縄文遺跡の発見された場所。諏訪湖を中心に東に広がる)

 「尖石縄文考古館」には、尖石遺跡発掘上の伝説的人物・宮坂英弌氏が詳しく紹介されている。彼によって発掘調査が行われ、多数の竪穴住居址とともに土器や石器が発見され、中部山岳地帯の高原地に繁栄した縄文時代中期の文化と集落が明らかにされた。遺跡の南斜面には三角錐状の、「とがりいし」と呼ばれ石も発掘され、縄文人が石器を研いだものと推定され、遺跡の名前の基となった。(写真:宮坂氏を讃える掲示)







 その尖石遺跡を代表する土器が、右写真に見る如く、高さ19.5cmの深鉢型土器で、縄文が付けられていて完全な形で発掘された。考古館は写真撮影が可で、その撮影したものの幾つかを以下に掲示。

   

                      (この土器も”ビーナス”と同時に国宝指定)

  
(『縄文に学ぶ』より焼町土器)   (『縄文に学ぶ』より曽利式土器)



 しかし、何といってもこの考古館の花形は、我が国最初の、縄文時代の国宝土偶「縄文のビーナス」と「仮面の女神」。(写真右:館内で撮影したもの)

 「縄文のビーナス」は、尖石遺跡から西へ5kmの地点にある棚畑遺跡から出土した。小さい顔・妊婦を表す腹部・大きく安定感のある腰と尻・太い足でしっかりと立っている身長27cmの土偶。親しみを感じる土偶だ。(写真下:『縄文を学ぶ』より)

      
                                            
 第一発見者は、主婦で諏訪地方の遺跡発掘調査に参加していた関喜子さん。彼女は回顧談のなかで「・・・竹ベラでわずかに出ていた部分を堀り始めました。土器片だと思ったのですが、少しずつ形が現れ土偶と分かりびっくり。胸をどきどきさせながら調査員の人と丁寧 に堀り、やがて見たこともない大きな土偶が完全な形で姿を現したときは、経験したことのない感激でした。もう夕暮れ時刻だった。4000年余の眠りから覚めた土偶を、西に傾いた太陽が、スポットライトのように照らしていた。廃土の山にはイヌタデが真っ赤に燃えていた。こんな歌ができた。
 ≪掘り進み膨らむ胸に触れしとき わが血土偶に流るる覚ゆ≫」と語っている。19869月8日 夕暮のことだった。(写真3:このような状態で出土した。『縄文に学ぶ』より)


 この土偶はその後3回海を渡った。ニューヨーク「日本陶器の源流展」、パリ「縄文展」、イギリス大英博物館「土偶展」と。見学した世界の多くの人々の心に深い感動を与えた。2009年の「土偶展」では「仮面の女神」も展示され、8万人近い欧米各国の人びとがみつめ、縄文文化のすばらしさが世界に発信された。帰国後に東京国立博物館で「国宝土偶展」が開かれたが私は見ていなかった。