家門に属する特殊能力者にとって従うべき最高の権威は家長・族長である。
生まれながらに族人である西沢は、特使として許されているお務めの範囲外では、直に他家の家長からの依頼を受けるわけにはいかない。
如何に元恋人の頼みであっても、それはそれ、これはこれ…。
宗主の命令なしには独断では動けない。
西沢の場合は事情がかなり複雑である。
西沢家の養子だから本来は西沢家の養父に従うべきなのだが、西沢家よりもはるかに家格が上の裁きの一族の本流の血を引くことから西沢の方が養父よりも格が上になり、宗主に直属することになる。
特使となった今では養父の方が西沢に従わざるを得ない立場だが…西沢は黙したままでこれまでと変わらない待遇と生活に甘んじている。
庭田家は裁きの一族に負けず劣らず名門ではあるが、それだけに宗主の一族とは微妙な関係にある。
西沢の返答ひとつでとんでもない事態に発展しかねない。
「それには…答えられない。 答える権限がない…。 」
ひとつ大きな溜息をついてから西沢はそう言った。
そうよ…ね…麗香の表情が落胆に曇った。
気安く…声をかけた私が悪かったわ…。
麗香は非礼を詫びた。
壁ができていた。とてつもなく大きな壁が…。
最早…あの頃の西沢とは違う。
内面に秘められた無垢な魂…もう麗香には垣間見ることすらできない…。
長年の間に幾重にも施錠された心の奥底に仕舞われたまま…。
閉じ込められた籠の鳥は…いつの間にか鋭い嘴と爪を身につけて…いまや能力者として顕要な位置にあり…そのひと言が大きな意味を持つ…。
ただ…飛び立つための翼だけが未だ封印されたままで…。
誰も望まないんだわ…この男が翼を広げることを…。
それはおそらく…誰にとっても脅威だから…。
「悪いことを言ったわ…。 私事ですべき話じゃなかった。
つい懐かしくて身内のように思ってしまった…。
今は…忘れてちょうだい…。
縁があれば…そのうち上から何か知らせが行くわ…。 」
寂しげに微笑みながら麗香は言った。
西沢も頷いた。
お互い胸の中に残る火は消えてはいない…それは感じられる。
だからと言ってもう過去には戻れない…。
「あ…ねぇ…紫苑ちゃん…泊まっていけるわよね…?
紫苑ちゃんの好きだったもの…全部覚えてるんだから…私…。
今頃…家の料理人が腕によりをかけて奮闘してるはずよ。
話したいことがたくさんあるんだもん…。
ゆっくりしてって…。 」
智明…スミレがその場の空気を取り繕うように明るく言った。
西沢は切なく微笑み…首を振った。
「せっかくだけど…帰るよ…。 仕事があるんだ…。
ふたりに会えて嬉しかった。 もう会うこともない…と思っていたからね…。 」
西沢は立ち上がると麗香に向かって深々とお辞儀をした。
「お邪魔致しました。 天爵ばばさま…どうか御身お大切に…。 」
あなたもね…と麗香も軽く頭を下げた。
西沢はちょっとだけ智明に笑顔を向けると静かに部屋を出て行った。
「お姉ちゃま…いいの? 行ってしまうわよ…紫苑が…。
あんなに待ってたんじゃないの…? 」
いいのよ…と麗香は背中を向けた。今にも泣き出しそうに肩震わせて…。
ん…もう…意地っ張り!
智明は西沢の姿を追うように部屋を後にした。
馬鹿だったわ…久々に会えたのに…あんな話するなんて…。
恋人との再会には…向かなかったわねぇ…。
薔薇の園の真ん中をゆっくりと西沢は歩いていた。
決別した過去とは再会するもんじゃない…な。
懐かしいだけで終わりゃしない。
「待って…紫苑ちゃん…。 」
スミレが後を追ってきた。
「もう…せっかちね。 食事だけでもしていってくれればいいのに…。
お姉ちゃま…そわそわしながら朝からずっと待ってたんだから…。 」
そう言って唇を尖らせた。
ごめん…と西沢は呟いた。
「…いろいろ相談したいこともあったのよ…。
お姉ちゃまは若くして天爵ばばさまになってしまったから…心開いて話ができるのは私だけなのね…。
そりゃあばばさまに仕える人たちは頼りになる良い人ばかりよ。
でも…それはお仕事上のことで私的に付き合えるってわけじゃないの。
個人的な話ができないっていうのは…寂しいものよ…。
私だって…ひとりで支え続けるのがつらい時も在るわ…。
こんな時…紫苑ちゃんが居てくれたらって何度思ったか知れやしない…。 」
スミレはちょっと洟を啜った。
何処の誰に何を相談することもできず…まだ学校を卒業したての頃からずっと麗香を支えてきたスミレの心の中には相当に鬱積したものがあるに違いない。
「ねえ…スミレちゃん…。 気付いただろう…?
麗香さんはもう…天爵ばばさまとしてしか僕に接してこられないんだよ。
僕も同じだけど…。
この長い年月の間に…僕等…そういう鎧で身を固めてしまったんだ。
悲しいことだけど…どうしようもない…。 」
それは…分かるけど…。
花園の終わりを告げるゲートが見えてきた…。
西沢はそっとスミレの手を取った。
「あの日もこうやって見送ってくれたよね…。
ねえ…スミレちゃん…西沢紫苑としては多分…二度とここには来ないだろうけれど…スミレちゃんは時々…愚痴を言いに来ればいいよ…。
メールでも電話でも…直接…訪ねてくれてもかまわないけどさ…。
僕にできる…精一杯の協力…。 」
そう言って西沢はスミレの手を軽くとんとんと叩いて笑顔で頷いてみせた。
スミレは涙を浮かべながらも少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
ありがとう…元気でね…紫苑ちゃん…ここでお別れ…。
でも…きっとまた…すぐに会えるわ…。
マンションの地下の駐車場に車を入れて、エレベーターで三階へ…往復2時間あまり運転したとは言え…堪えるほどでもないだろうにやたら疲れていた。
玄関に入った途端に思わず上がり框に腰を下ろした。
俯いてふ~っと大きく溜息をついた。
驚いたノエルが飛んできた。
心配そうな声が頭の上から響いた。
「紫苑さん…大丈夫…? 気分悪いの…? 」
大丈夫…心配ないよ…。 ちょっと疲れちゃって…。
西沢はノエルに微笑みかけた…つもりだった。
ノエルはじっと西沢を見つめながら、そっと指で西沢の頬を拭った。
悲しいことが…あったんだ…?
かもな…西沢は軽く頷いた。
呼び出しを受けて…懐かしい人に会いに行ったんだ。
9年も前に付き合いのあった人で…今更どうこうって気持ちはなかったけど…思い出話のひとつもしたかった…。
だけど…僕等は最初からお役目の話しかできなかった。
どうしようもないくらい…お互いに…自分の話をしなかった。
聞きたいのはそんな話じゃない…言いたいのはそんなことじゃない…。
あなた自身のこと…僕自身のこと…。
何を期待していたんだろうね…。
そうなることは…百も承知のはずだったんだ…。
お役目の話だって…分かっていたのに…。
スミレちゃんがばばさまから直接に聞けと言ってたんだから…。
ノエル…過去なんか振り返るもんじゃないなぁ…。
時を越えたい…ほんの一瞬でいいから…と愚かにも望んでしまった…。
ノエルはそっと西沢の肩を抱いた。少しだけ薔薇の香りがした。
好きだったんだね…その人のこと…。
「ねぇ紫苑さん…お風呂沸いてるよ…。 ゆっくり浸かっておいでよ…。
きっと…楽になるから…。 」
そう…洗い流して消してしまえばいい…。
その人の香りともども…過去の思い出なんか…綺麗さっぱり…。
「御腹空いてる? お雑炊作ってあげようか…? 」
そうだな…忘れてた…。
じゃあ…お風呂の間に作っとく…ゆっくりね…。
西沢がバスルームに行ってしまうとノエルはキッチンで野菜を刻み始めた。
西沢の心の奥底にノエルの知らない女が居て、別れて9年も経っているのに未だにしつこく西沢を呪縛している。
気に入らない…。
御腹に胎児が居るせいかノエルの感情が少し女性的になっている。
普段なら輝と西沢の濡れ場を見たって嫉妬の気持ちも湧いてこないのに…。
馬鹿みたい…女に嫉妬するなんて…。
それも…大昔の…さ。
自分でも儘ならない感情に苛立つ…。
理由もなく不快…。
これも…赤ちゃんのせいかなぁ…?
飯島院長には毎回いろいろな注意点を聞かされているが、普段が男のノエルには他人事のようで…自分にそれが当て嵌まるなんて思ってもみなかった。
まだ御腹も小さいし実感がわかない…。悪阻がなかったら自分が妊婦だとは絶対思えないほど。
その苛々はベッドに入ってからも治まらなかった。
溜息と寝返りの繰り返し…。
疲れの慢性化している西沢はすぐにうとうとし始めたから…なるべく邪魔しないように少し離れた。
もう…どうしよう…? あいつ等が出ると面倒だから散歩も行けないし…。
背を向けて…ひと際大きく溜息を吐いた時、ふいに西沢の手が御腹に触れた。
「起きてたの? 」
振り返って西沢を見た。
窓から射す月明かりで西沢が笑っているのが見えた。
「今ね…ここに居るよ…。 あ…逃げちゃった…。 」
西沢は子宮の羊水の揺り籠に浮かぶ胎児の位置を感じ取っていた。
「なんて名前…付けようかなぁ…。 」
きみと僕の血を引いているんだから…間違いなく暴れるな…。
龍…とか…拳とか…?
クスッとノエルが笑った。 カンフー映画のキャラじゃないんだから…。
気が早過ぎるよ…紫苑さん…。 それに…女の子だったらどうすんの…?
う~ん…それは考えてなかった。 僕の兄弟は男ばかりだから…なぁ。
じゃあ…考えといて…僕…寝るから…宿題だよ…。
ノエルはそっと西沢に寄り添った。西沢が優しくノエルの髪を撫でた。
心臓の音が聞こえる…。
眠りを誘う命のリズム…温かい身体…。
もう…あの香りはしない…。
終わったことなんかどうでもいいじゃない…?
紫苑さんは今…確かに僕の傍にいる…僕を見ている…。
過去より今…そして未来…。
次回へ
生まれながらに族人である西沢は、特使として許されているお務めの範囲外では、直に他家の家長からの依頼を受けるわけにはいかない。
如何に元恋人の頼みであっても、それはそれ、これはこれ…。
宗主の命令なしには独断では動けない。
西沢の場合は事情がかなり複雑である。
西沢家の養子だから本来は西沢家の養父に従うべきなのだが、西沢家よりもはるかに家格が上の裁きの一族の本流の血を引くことから西沢の方が養父よりも格が上になり、宗主に直属することになる。
特使となった今では養父の方が西沢に従わざるを得ない立場だが…西沢は黙したままでこれまでと変わらない待遇と生活に甘んじている。
庭田家は裁きの一族に負けず劣らず名門ではあるが、それだけに宗主の一族とは微妙な関係にある。
西沢の返答ひとつでとんでもない事態に発展しかねない。
「それには…答えられない。 答える権限がない…。 」
ひとつ大きな溜息をついてから西沢はそう言った。
そうよ…ね…麗香の表情が落胆に曇った。
気安く…声をかけた私が悪かったわ…。
麗香は非礼を詫びた。
壁ができていた。とてつもなく大きな壁が…。
最早…あの頃の西沢とは違う。
内面に秘められた無垢な魂…もう麗香には垣間見ることすらできない…。
長年の間に幾重にも施錠された心の奥底に仕舞われたまま…。
閉じ込められた籠の鳥は…いつの間にか鋭い嘴と爪を身につけて…いまや能力者として顕要な位置にあり…そのひと言が大きな意味を持つ…。
ただ…飛び立つための翼だけが未だ封印されたままで…。
誰も望まないんだわ…この男が翼を広げることを…。
それはおそらく…誰にとっても脅威だから…。
「悪いことを言ったわ…。 私事ですべき話じゃなかった。
つい懐かしくて身内のように思ってしまった…。
今は…忘れてちょうだい…。
縁があれば…そのうち上から何か知らせが行くわ…。 」
寂しげに微笑みながら麗香は言った。
西沢も頷いた。
お互い胸の中に残る火は消えてはいない…それは感じられる。
だからと言ってもう過去には戻れない…。
「あ…ねぇ…紫苑ちゃん…泊まっていけるわよね…?
紫苑ちゃんの好きだったもの…全部覚えてるんだから…私…。
今頃…家の料理人が腕によりをかけて奮闘してるはずよ。
話したいことがたくさんあるんだもん…。
ゆっくりしてって…。 」
智明…スミレがその場の空気を取り繕うように明るく言った。
西沢は切なく微笑み…首を振った。
「せっかくだけど…帰るよ…。 仕事があるんだ…。
ふたりに会えて嬉しかった。 もう会うこともない…と思っていたからね…。 」
西沢は立ち上がると麗香に向かって深々とお辞儀をした。
「お邪魔致しました。 天爵ばばさま…どうか御身お大切に…。 」
あなたもね…と麗香も軽く頭を下げた。
西沢はちょっとだけ智明に笑顔を向けると静かに部屋を出て行った。
「お姉ちゃま…いいの? 行ってしまうわよ…紫苑が…。
あんなに待ってたんじゃないの…? 」
いいのよ…と麗香は背中を向けた。今にも泣き出しそうに肩震わせて…。
ん…もう…意地っ張り!
智明は西沢の姿を追うように部屋を後にした。
馬鹿だったわ…久々に会えたのに…あんな話するなんて…。
恋人との再会には…向かなかったわねぇ…。
薔薇の園の真ん中をゆっくりと西沢は歩いていた。
決別した過去とは再会するもんじゃない…な。
懐かしいだけで終わりゃしない。
「待って…紫苑ちゃん…。 」
スミレが後を追ってきた。
「もう…せっかちね。 食事だけでもしていってくれればいいのに…。
お姉ちゃま…そわそわしながら朝からずっと待ってたんだから…。 」
そう言って唇を尖らせた。
ごめん…と西沢は呟いた。
「…いろいろ相談したいこともあったのよ…。
お姉ちゃまは若くして天爵ばばさまになってしまったから…心開いて話ができるのは私だけなのね…。
そりゃあばばさまに仕える人たちは頼りになる良い人ばかりよ。
でも…それはお仕事上のことで私的に付き合えるってわけじゃないの。
個人的な話ができないっていうのは…寂しいものよ…。
私だって…ひとりで支え続けるのがつらい時も在るわ…。
こんな時…紫苑ちゃんが居てくれたらって何度思ったか知れやしない…。 」
スミレはちょっと洟を啜った。
何処の誰に何を相談することもできず…まだ学校を卒業したての頃からずっと麗香を支えてきたスミレの心の中には相当に鬱積したものがあるに違いない。
「ねえ…スミレちゃん…。 気付いただろう…?
麗香さんはもう…天爵ばばさまとしてしか僕に接してこられないんだよ。
僕も同じだけど…。
この長い年月の間に…僕等…そういう鎧で身を固めてしまったんだ。
悲しいことだけど…どうしようもない…。 」
それは…分かるけど…。
花園の終わりを告げるゲートが見えてきた…。
西沢はそっとスミレの手を取った。
「あの日もこうやって見送ってくれたよね…。
ねえ…スミレちゃん…西沢紫苑としては多分…二度とここには来ないだろうけれど…スミレちゃんは時々…愚痴を言いに来ればいいよ…。
メールでも電話でも…直接…訪ねてくれてもかまわないけどさ…。
僕にできる…精一杯の協力…。 」
そう言って西沢はスミレの手を軽くとんとんと叩いて笑顔で頷いてみせた。
スミレは涙を浮かべながらも少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
ありがとう…元気でね…紫苑ちゃん…ここでお別れ…。
でも…きっとまた…すぐに会えるわ…。
マンションの地下の駐車場に車を入れて、エレベーターで三階へ…往復2時間あまり運転したとは言え…堪えるほどでもないだろうにやたら疲れていた。
玄関に入った途端に思わず上がり框に腰を下ろした。
俯いてふ~っと大きく溜息をついた。
驚いたノエルが飛んできた。
心配そうな声が頭の上から響いた。
「紫苑さん…大丈夫…? 気分悪いの…? 」
大丈夫…心配ないよ…。 ちょっと疲れちゃって…。
西沢はノエルに微笑みかけた…つもりだった。
ノエルはじっと西沢を見つめながら、そっと指で西沢の頬を拭った。
悲しいことが…あったんだ…?
かもな…西沢は軽く頷いた。
呼び出しを受けて…懐かしい人に会いに行ったんだ。
9年も前に付き合いのあった人で…今更どうこうって気持ちはなかったけど…思い出話のひとつもしたかった…。
だけど…僕等は最初からお役目の話しかできなかった。
どうしようもないくらい…お互いに…自分の話をしなかった。
聞きたいのはそんな話じゃない…言いたいのはそんなことじゃない…。
あなた自身のこと…僕自身のこと…。
何を期待していたんだろうね…。
そうなることは…百も承知のはずだったんだ…。
お役目の話だって…分かっていたのに…。
スミレちゃんがばばさまから直接に聞けと言ってたんだから…。
ノエル…過去なんか振り返るもんじゃないなぁ…。
時を越えたい…ほんの一瞬でいいから…と愚かにも望んでしまった…。
ノエルはそっと西沢の肩を抱いた。少しだけ薔薇の香りがした。
好きだったんだね…その人のこと…。
「ねぇ紫苑さん…お風呂沸いてるよ…。 ゆっくり浸かっておいでよ…。
きっと…楽になるから…。 」
そう…洗い流して消してしまえばいい…。
その人の香りともども…過去の思い出なんか…綺麗さっぱり…。
「御腹空いてる? お雑炊作ってあげようか…? 」
そうだな…忘れてた…。
じゃあ…お風呂の間に作っとく…ゆっくりね…。
西沢がバスルームに行ってしまうとノエルはキッチンで野菜を刻み始めた。
西沢の心の奥底にノエルの知らない女が居て、別れて9年も経っているのに未だにしつこく西沢を呪縛している。
気に入らない…。
御腹に胎児が居るせいかノエルの感情が少し女性的になっている。
普段なら輝と西沢の濡れ場を見たって嫉妬の気持ちも湧いてこないのに…。
馬鹿みたい…女に嫉妬するなんて…。
それも…大昔の…さ。
自分でも儘ならない感情に苛立つ…。
理由もなく不快…。
これも…赤ちゃんのせいかなぁ…?
飯島院長には毎回いろいろな注意点を聞かされているが、普段が男のノエルには他人事のようで…自分にそれが当て嵌まるなんて思ってもみなかった。
まだ御腹も小さいし実感がわかない…。悪阻がなかったら自分が妊婦だとは絶対思えないほど。
その苛々はベッドに入ってからも治まらなかった。
溜息と寝返りの繰り返し…。
疲れの慢性化している西沢はすぐにうとうとし始めたから…なるべく邪魔しないように少し離れた。
もう…どうしよう…? あいつ等が出ると面倒だから散歩も行けないし…。
背を向けて…ひと際大きく溜息を吐いた時、ふいに西沢の手が御腹に触れた。
「起きてたの? 」
振り返って西沢を見た。
窓から射す月明かりで西沢が笑っているのが見えた。
「今ね…ここに居るよ…。 あ…逃げちゃった…。 」
西沢は子宮の羊水の揺り籠に浮かぶ胎児の位置を感じ取っていた。
「なんて名前…付けようかなぁ…。 」
きみと僕の血を引いているんだから…間違いなく暴れるな…。
龍…とか…拳とか…?
クスッとノエルが笑った。 カンフー映画のキャラじゃないんだから…。
気が早過ぎるよ…紫苑さん…。 それに…女の子だったらどうすんの…?
う~ん…それは考えてなかった。 僕の兄弟は男ばかりだから…なぁ。
じゃあ…考えといて…僕…寝るから…宿題だよ…。
ノエルはそっと西沢に寄り添った。西沢が優しくノエルの髪を撫でた。
心臓の音が聞こえる…。
眠りを誘う命のリズム…温かい身体…。
もう…あの香りはしない…。
終わったことなんかどうでもいいじゃない…?
紫苑さんは今…確かに僕の傍にいる…僕を見ている…。
過去より今…そして未来…。
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