御大親祀り…御大親とはお伽さまの一族が信仰するこの世界を創造された言わば神さまのことだが…よくある神話などとは異なり人間の姿をしていない。
彼等が祭祀によって語る相手はおそらく太極たちエナジーのようなものだと考えられる。
この世で修行を積んだ魂は死によって肉体を離れると御大親の御許へ旅立ち…御大親の慈愛に癒された後、再びこの世に戻り修行する。
幾度となく修行を繰り返した後で、磨かれた魂は御大親の中に取り込まれ永遠の安らぎを得る。
確か…そんな内容であったと有は記憶している。
お伽さまの所作は…現代に伝わっている御神道や仏教などの整然とした加持祈祷とはどこか異なっていて、古代のシャーマニズムを思わせるような幻想的な趣があった。
流麗で何処となく艶かしさも兼ね備えた所作は…厳かながら風雅な舞いでも見ているような快い気持ちで…魂がだんだんに惹きこまれていく…。
唇に唱えられる文言のリズムが身体の芯まで響き渡り…皆を酔わせた。
特に西沢を魅了したのはその女性のような手の動きで、おそらく…宗主をも虜にしたであろうその表現力は見事と言うより他はない…。
やがて静かに動きを止めたお伽さまの唇から…穏やかにノエルに向かって幾つもの問いが投げかけられる。
それに対してノエルもゆったりと答えを返す。
知らないようなことばかり口にするので誤魔化しのないことがはっきりと分かる。
有がそれを書き留め…滝川はノエルの容態を観察している。
大きな力を持っていても使い方を未だにマスターしていないノエルは次第に疲れを見せ始める。
しかし…祭祀の間は何があろうと近付くことは許されない。
祭主と媒介の命に関わるからだ…。
それまでの口述によれば…亀石が現在の形に造形されたのは…やはり明日香村にある他の巨石たちが造られたのとだいたい同じくらいの時期…。
但し…目的が少し異なる。
旱魃や水害などに対する守護として水天を祀ったものらしい…。
水天は雨を降らす密教の神で…西の護りでもある。
亀石には古くからの伝説がある…。
大和が湖だった頃に湖の対岸同士の当麻と川原の町に喧嘩が起こった。
負けた川原は湖の水を当麻にとられ…湖に住んでいた亀はみな死んでしまった。
亀を哀れに思った村人達は、亀石を刻んで供養した。
もし…亀石が西を向き、当麻を睨みつけると大和盆地は泥海になる…。
そんな言い伝えである。
水神ならともかく…密教の水天が祀られるには、年代的に少しばかり早いような気もするが…?
伝説で当麻が川原から水を奪ったというのは…旱魃を意味するのではないか…?
西を向いて当麻を睨みつけるというのは旱魃の際に、西の水天に雨乞いするためではないか…?
大和が泥海に沈むのは降り過ぎた雨による水害か…?
幾つもの口述を聞きながら…西沢はそんなことを考えた。
「水天の御座の御霊よ…さらに問う…。
御身はもとより水天・水神の御使いとしてそこに居られるのか…? 」
お伽さまはさらに過去のことを訊ねた。
するとノエルの口を通じて…亀石はこの形になってまだ間もない…と応えた。
「我はもとより水天の御座には非ず…。 水神の御使いにも非ず…。
古より…天網たりしものなり…。
災いの芽を摘み…地に安寧を齎す…天授の任に在りしもの…。 」
石自体の記憶はさらに古い。
天網とは…悪を逃さぬために天が張り巡らしたレーダーのようなものだ。
天網と聞いて…西沢たちはお互いに顔を見合わせた。
それで…オリジナルの存在をキャッチしてワクチンを覚醒させたのか…。
現在の形に成形されてから複合的な役割を果たすようになった亀石だが…本来の役目を決して忘れてはいないようで…大和…日本の危機を敏感に感じ取った上で対策を講じたわけだ。
「水天の御座の御霊よ…。 御大親の名において御霊にお願い申し上げる…。
現し世に災いの芽の多く在りと言えど…未だその主たるものの覚醒を見ず。
徒に急かれずと…今しばらくお鎮まりあれ…。
時至れば自ずと兆し有り…。 」
お伽さまはノエルの中の巨石の精霊に向かって丁寧に拝礼した。
亀石はほんの一瞬…間をおいた。
「諾…。 」
そう答えて…それきり黙した。
再び…祭祀の文言が唱えられ始め…それは祭祀を滞りなく終えたことの報告と御大親への感謝の文言で締めくくられた。
お伽さまは深々と御大親に対して拝礼した後…大きくふうっと息をついた。
そして…その場のみんなにあの優しい笑顔を向けて祭祀の終了を告げた。
滝川が急いでノエルの傍に近付き容態を確認した。
多少…疲れてはいるが御腹の方には特に問題は無かった。
「滝川先生…。 ノエルを少し横にならせて上げてください…。
せっかくベッドがあるのだから…。 」
にこやかにそう言ってお伽さまはソファの方に移動した。
玲人が敷物を片付け、西沢が病院の喫茶室に飲み物を用意させた。
飯島院長の支持で前以てお茶の準備されていたとみえて、喫茶室からはすぐにウェイターがワゴンを転がして飛んで来た。
お疲れさまでございました…と有が声をかけるとお伽さまは軽く頷いた。
「しばらくは…水天の御座にもお休み頂けることでしょうが…根本的な解決にはなりません…。
万が一…御座が災いの芽と呼んでいるものが覚醒し…人間が破滅の方向へと進んで行くようならば…御座は再び動きます。
それも…それほど遠い話ではないように思われます…。 」
運ばれてきたコーヒーで渇いた喉を潤しながら穏やかな口調でそう話した。
対策を急がねばなりませんね…。
終わりのない戦い…西沢はHISTORIANの話を思い出していた。
ひとつ片付けばまたひとつ新たな課題が生まれてくる…。
次から次へと際限なく現れる問題…彼等は長い時の中でこの苛立つような思いにどう対応してきたのか…?
お伽さまは…何処か焦りの見える西沢の顔をじっと見つめていたが…ふと思い出したように言った。
「八月…初旬になりそうですよ…。 」
えっ…? 不思議そうな顔をして西沢はお伽さまを見つめた。
お伽さまは微笑みながら頷いた。
「御大親の申されるところでは…それほど大事無い…とのことで。
八月に入ったら…遠出は避けた方が宜しいかと…。 」
分かりました…有難うございます…と西沢は少しばかりほっとしたように答えた。
「皆から聞いてはいたが…紫苑…あなたは本当に…宗主に似ている…。
同じ血のせいだろうか…顔立ちはまったく違うのに…錯覚してしまいそうだ…。
本家に生まれていないのが不思議なくらい…。
木之内…泣く泣く紫苑を手放したあなたの無念が思い遣られます…。
だが…案ずることはありません…。 必ず良い時が来る…。 」
お伽さまは有にそう声をかけた。 有は恐縮して少し頭を下げた。
どうやら祭祀の間に御大親は目的の亀石のこと以外にも、お伽さまにいろいろなお告げをされたようだ…。
しばしの休息の後…目的の仕事を終えたお伽さまは、名残惜しげに西沢たちとの挨拶を済ますと、玲人に送られて機嫌よく帰途についた。
いつも忙しくあちらこちらを飛び回っている有が今日は自宅に戻ると言うので、ノエルは久々に気分転換…有にくっついて亮のところへ泊まりに行った。
屈指の名治療師でもある有が傍に居れば、西沢も滝川も安心してノエルを遊びに出してやれる。
ここのところずっと調子が悪くて気が滅入っていたから、何の不安もなく亮の家へ行くことができてノエルはとても楽しそうだった。
「美しい方だった…な。 」
西沢の部屋へ戻って一息ついていた時、滝川が不意にそんなことを呟いた。
お伽さまは少年のような笑顔の持ち主…日頃の精進のせいか…とても若く見える。
お兄さんと言った感じで…。
居間のソファに寝転がっていた西沢も…ぼんやりとその姿を思い出していた。
そんなに…宗主に似ているかなぁ…みんなに言われるけど…。
「宗主にも一度お会いしたが…あの方も秀麗な人だ。
ちょっとだけ有さんに似てるところがあって…やっぱり血が繋がってんだな…。
おまえの場合はカタリナお祖母ちゃんの血もかなり影響してるけどな…。 」
濃い目に入れたコーヒーのカップを西沢に渡しながら滝川は言った。
西沢は半身起こしてひと口飲み、リビングテーブルの上にカップを置いて再び仰向けに転がった。
「何だよ…元気ないなぁ…。 」
そう言いながら滝川は西沢の転がっているソファを背もたれにして床の絨毯の上に直に腰を下ろした。
「疲れた…。 もう…何もかんも放り出したいくらい…。
ぜいぜい言いながら一年以上も駆けずり回って…何の解決も見ないなんて…。
いったい…何やってんだろう…僕は…? 」
壊れたな…と滝川は感じた。
西沢の方に向き直って膨れっ面した西沢の顔を覗き込んだ。
「何の解決もしてないってわけじゃない…。 おまえはよくやってるよ…。
おまえが居なけりゃ…とっくに日本中に大騒動が起きているぜ…。 」
西沢の中に積もり積もった疲れ…吐き出したくても吐き出せない思い…。
自分でもどうしようもなくなる時…滝川だけに見せる顔がある…。
それは…その時々でまるきり違うけれど…他の誰にも見せない顔…。
ノエルじゃないが…紫苑が自虐に走る前に何とかしてやらないと…。
西沢が無力な自分自身に怒りを向け始めている…。
滝川は両手でそっと西沢の頬を包み込む。
「罰ゲームしよう…紫苑…。
おまえがおまえ自身を許せないのなら…ね。 」
滝川がそっと囁くように言った。
罰ゲーム…ねぇ…。
滝川の唇が触れる…喉にではなく…西沢の唇に…。
悪ふざけ…すると…殺すよ…。
ゲームだよ…紫苑…。
怒ってもいい…泣いてもいい…何をしてもいいから…遊ぶんだ…。
赤ん坊になって甘えちゃってもいい…。
遊ぶ…?
そう…素のままで…馬鹿をしよう…。
誰も居ない…おまえと僕だけ…何したって叱られやしない…。
何でもできるぜ…好きなように…。
写真…撮らない…?
うふ…まだ覚えてたか…。
撮らねぇよ…。
それじゃ…恭介の好きそうな…対戦ゲームといきますか…?
おやぁ…随分と過激…!
闇の帳の中で…ふたりきりのゲームが始まる…。
邪魔するものなんて何もない…。
その一瞬だけ…胸の中に詰ったごちゃごちゃのすべてを…きれいさっぱり忘れ去るために…。
その瞬間さえあれば…いつものおまえに戻れる…。
紫苑…忘れてしまえ…嫌なこと…哀しいこと…すべてを…。
次回へ
彼等が祭祀によって語る相手はおそらく太極たちエナジーのようなものだと考えられる。
この世で修行を積んだ魂は死によって肉体を離れると御大親の御許へ旅立ち…御大親の慈愛に癒された後、再びこの世に戻り修行する。
幾度となく修行を繰り返した後で、磨かれた魂は御大親の中に取り込まれ永遠の安らぎを得る。
確か…そんな内容であったと有は記憶している。
お伽さまの所作は…現代に伝わっている御神道や仏教などの整然とした加持祈祷とはどこか異なっていて、古代のシャーマニズムを思わせるような幻想的な趣があった。
流麗で何処となく艶かしさも兼ね備えた所作は…厳かながら風雅な舞いでも見ているような快い気持ちで…魂がだんだんに惹きこまれていく…。
唇に唱えられる文言のリズムが身体の芯まで響き渡り…皆を酔わせた。
特に西沢を魅了したのはその女性のような手の動きで、おそらく…宗主をも虜にしたであろうその表現力は見事と言うより他はない…。
やがて静かに動きを止めたお伽さまの唇から…穏やかにノエルに向かって幾つもの問いが投げかけられる。
それに対してノエルもゆったりと答えを返す。
知らないようなことばかり口にするので誤魔化しのないことがはっきりと分かる。
有がそれを書き留め…滝川はノエルの容態を観察している。
大きな力を持っていても使い方を未だにマスターしていないノエルは次第に疲れを見せ始める。
しかし…祭祀の間は何があろうと近付くことは許されない。
祭主と媒介の命に関わるからだ…。
それまでの口述によれば…亀石が現在の形に造形されたのは…やはり明日香村にある他の巨石たちが造られたのとだいたい同じくらいの時期…。
但し…目的が少し異なる。
旱魃や水害などに対する守護として水天を祀ったものらしい…。
水天は雨を降らす密教の神で…西の護りでもある。
亀石には古くからの伝説がある…。
大和が湖だった頃に湖の対岸同士の当麻と川原の町に喧嘩が起こった。
負けた川原は湖の水を当麻にとられ…湖に住んでいた亀はみな死んでしまった。
亀を哀れに思った村人達は、亀石を刻んで供養した。
もし…亀石が西を向き、当麻を睨みつけると大和盆地は泥海になる…。
そんな言い伝えである。
水神ならともかく…密教の水天が祀られるには、年代的に少しばかり早いような気もするが…?
伝説で当麻が川原から水を奪ったというのは…旱魃を意味するのではないか…?
西を向いて当麻を睨みつけるというのは旱魃の際に、西の水天に雨乞いするためではないか…?
大和が泥海に沈むのは降り過ぎた雨による水害か…?
幾つもの口述を聞きながら…西沢はそんなことを考えた。
「水天の御座の御霊よ…さらに問う…。
御身はもとより水天・水神の御使いとしてそこに居られるのか…? 」
お伽さまはさらに過去のことを訊ねた。
するとノエルの口を通じて…亀石はこの形になってまだ間もない…と応えた。
「我はもとより水天の御座には非ず…。 水神の御使いにも非ず…。
古より…天網たりしものなり…。
災いの芽を摘み…地に安寧を齎す…天授の任に在りしもの…。 」
石自体の記憶はさらに古い。
天網とは…悪を逃さぬために天が張り巡らしたレーダーのようなものだ。
天網と聞いて…西沢たちはお互いに顔を見合わせた。
それで…オリジナルの存在をキャッチしてワクチンを覚醒させたのか…。
現在の形に成形されてから複合的な役割を果たすようになった亀石だが…本来の役目を決して忘れてはいないようで…大和…日本の危機を敏感に感じ取った上で対策を講じたわけだ。
「水天の御座の御霊よ…。 御大親の名において御霊にお願い申し上げる…。
現し世に災いの芽の多く在りと言えど…未だその主たるものの覚醒を見ず。
徒に急かれずと…今しばらくお鎮まりあれ…。
時至れば自ずと兆し有り…。 」
お伽さまはノエルの中の巨石の精霊に向かって丁寧に拝礼した。
亀石はほんの一瞬…間をおいた。
「諾…。 」
そう答えて…それきり黙した。
再び…祭祀の文言が唱えられ始め…それは祭祀を滞りなく終えたことの報告と御大親への感謝の文言で締めくくられた。
お伽さまは深々と御大親に対して拝礼した後…大きくふうっと息をついた。
そして…その場のみんなにあの優しい笑顔を向けて祭祀の終了を告げた。
滝川が急いでノエルの傍に近付き容態を確認した。
多少…疲れてはいるが御腹の方には特に問題は無かった。
「滝川先生…。 ノエルを少し横にならせて上げてください…。
せっかくベッドがあるのだから…。 」
にこやかにそう言ってお伽さまはソファの方に移動した。
玲人が敷物を片付け、西沢が病院の喫茶室に飲み物を用意させた。
飯島院長の支持で前以てお茶の準備されていたとみえて、喫茶室からはすぐにウェイターがワゴンを転がして飛んで来た。
お疲れさまでございました…と有が声をかけるとお伽さまは軽く頷いた。
「しばらくは…水天の御座にもお休み頂けることでしょうが…根本的な解決にはなりません…。
万が一…御座が災いの芽と呼んでいるものが覚醒し…人間が破滅の方向へと進んで行くようならば…御座は再び動きます。
それも…それほど遠い話ではないように思われます…。 」
運ばれてきたコーヒーで渇いた喉を潤しながら穏やかな口調でそう話した。
対策を急がねばなりませんね…。
終わりのない戦い…西沢はHISTORIANの話を思い出していた。
ひとつ片付けばまたひとつ新たな課題が生まれてくる…。
次から次へと際限なく現れる問題…彼等は長い時の中でこの苛立つような思いにどう対応してきたのか…?
お伽さまは…何処か焦りの見える西沢の顔をじっと見つめていたが…ふと思い出したように言った。
「八月…初旬になりそうですよ…。 」
えっ…? 不思議そうな顔をして西沢はお伽さまを見つめた。
お伽さまは微笑みながら頷いた。
「御大親の申されるところでは…それほど大事無い…とのことで。
八月に入ったら…遠出は避けた方が宜しいかと…。 」
分かりました…有難うございます…と西沢は少しばかりほっとしたように答えた。
「皆から聞いてはいたが…紫苑…あなたは本当に…宗主に似ている…。
同じ血のせいだろうか…顔立ちはまったく違うのに…錯覚してしまいそうだ…。
本家に生まれていないのが不思議なくらい…。
木之内…泣く泣く紫苑を手放したあなたの無念が思い遣られます…。
だが…案ずることはありません…。 必ず良い時が来る…。 」
お伽さまは有にそう声をかけた。 有は恐縮して少し頭を下げた。
どうやら祭祀の間に御大親は目的の亀石のこと以外にも、お伽さまにいろいろなお告げをされたようだ…。
しばしの休息の後…目的の仕事を終えたお伽さまは、名残惜しげに西沢たちとの挨拶を済ますと、玲人に送られて機嫌よく帰途についた。
いつも忙しくあちらこちらを飛び回っている有が今日は自宅に戻ると言うので、ノエルは久々に気分転換…有にくっついて亮のところへ泊まりに行った。
屈指の名治療師でもある有が傍に居れば、西沢も滝川も安心してノエルを遊びに出してやれる。
ここのところずっと調子が悪くて気が滅入っていたから、何の不安もなく亮の家へ行くことができてノエルはとても楽しそうだった。
「美しい方だった…な。 」
西沢の部屋へ戻って一息ついていた時、滝川が不意にそんなことを呟いた。
お伽さまは少年のような笑顔の持ち主…日頃の精進のせいか…とても若く見える。
お兄さんと言った感じで…。
居間のソファに寝転がっていた西沢も…ぼんやりとその姿を思い出していた。
そんなに…宗主に似ているかなぁ…みんなに言われるけど…。
「宗主にも一度お会いしたが…あの方も秀麗な人だ。
ちょっとだけ有さんに似てるところがあって…やっぱり血が繋がってんだな…。
おまえの場合はカタリナお祖母ちゃんの血もかなり影響してるけどな…。 」
濃い目に入れたコーヒーのカップを西沢に渡しながら滝川は言った。
西沢は半身起こしてひと口飲み、リビングテーブルの上にカップを置いて再び仰向けに転がった。
「何だよ…元気ないなぁ…。 」
そう言いながら滝川は西沢の転がっているソファを背もたれにして床の絨毯の上に直に腰を下ろした。
「疲れた…。 もう…何もかんも放り出したいくらい…。
ぜいぜい言いながら一年以上も駆けずり回って…何の解決も見ないなんて…。
いったい…何やってんだろう…僕は…? 」
壊れたな…と滝川は感じた。
西沢の方に向き直って膨れっ面した西沢の顔を覗き込んだ。
「何の解決もしてないってわけじゃない…。 おまえはよくやってるよ…。
おまえが居なけりゃ…とっくに日本中に大騒動が起きているぜ…。 」
西沢の中に積もり積もった疲れ…吐き出したくても吐き出せない思い…。
自分でもどうしようもなくなる時…滝川だけに見せる顔がある…。
それは…その時々でまるきり違うけれど…他の誰にも見せない顔…。
ノエルじゃないが…紫苑が自虐に走る前に何とかしてやらないと…。
西沢が無力な自分自身に怒りを向け始めている…。
滝川は両手でそっと西沢の頬を包み込む。
「罰ゲームしよう…紫苑…。
おまえがおまえ自身を許せないのなら…ね。 」
滝川がそっと囁くように言った。
罰ゲーム…ねぇ…。
滝川の唇が触れる…喉にではなく…西沢の唇に…。
悪ふざけ…すると…殺すよ…。
ゲームだよ…紫苑…。
怒ってもいい…泣いてもいい…何をしてもいいから…遊ぶんだ…。
赤ん坊になって甘えちゃってもいい…。
遊ぶ…?
そう…素のままで…馬鹿をしよう…。
誰も居ない…おまえと僕だけ…何したって叱られやしない…。
何でもできるぜ…好きなように…。
写真…撮らない…?
うふ…まだ覚えてたか…。
撮らねぇよ…。
それじゃ…恭介の好きそうな…対戦ゲームといきますか…?
おやぁ…随分と過激…!
闇の帳の中で…ふたりきりのゲームが始まる…。
邪魔するものなんて何もない…。
その一瞬だけ…胸の中に詰ったごちゃごちゃのすべてを…きれいさっぱり忘れ去るために…。
その瞬間さえあれば…いつものおまえに戻れる…。
紫苑…忘れてしまえ…嫌なこと…哀しいこと…すべてを…。
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