歯を喰いしばっても思わず声が漏れそうになる…。
エナジーを産んだ時とは比べものにならない痛みにノエルは耐えていた。
男はちょっとしたことで情けない声をあげるなと…父親から厳しく教えられてきたけど…これは我慢できないかも…。
ノエルの周りには飯島院長…西沢家と同族のベテラン看護婦がひとり…西沢と滝川…そして有も緊急事態に備えて控えている。
少し前に玲人が何かを告げに来て…西沢が外に出たけれどすぐに戻ってきた。
急ぎの仕事でもあるんじゃないかな…?
そう思った途端にまた痛みの波が押し寄せる。
「紫苑さん…。 仕事…あるんでしょ…? 僕…ひとりで平気だから…。 」
苦痛に顔をゆがめながらも何とか笑顔を作った。
仕事は終わってるから大丈夫…と西沢は安心させるように言った。
お伽さまが無事を祈って安産の祭祀をしてくださっているそうだ…。
そんなふうに伝えた。
玲人の知らせはそれだけじゃなかった。
病院の周辺にHISTORIANがウロウロしているという。
早速…嗅ぎつけたな…。
鼻のいいやつめ…。
亮が分娩室の近辺を…御使者の仲根が病院内を巡回して奴等の動きを探っている。
分娩室に乗り込んで来ないとも限らないから注意しててくれ…と玲人は言った。
初めてのことでよくは分からないけど…何かおかしい…とノエルが言い出したのは夜中のことで…どうやら陣痛らしいと分かったのが今朝受けた検診…。
ノエルはそのまま特別室で待機しながら…時々起こる痛みと延々10時間ほどのお付き合い…。
陣痛の感覚が短くなって分娩室へ来て最初にショックだったのは…当たり前だけど看護婦さんの存在…。
だって…恥かしいじゃん!
いくら小母さん看護婦でも女は女…見られたくないもんがあるんだから…。
看護婦さんもこういうケースは初めてで…どういう顔していいんだか最初は戸惑っているようだった。
目の前に居るのは若い男の子…確かに御腹は大きいけれど…ないものはないし…出てるものは出てる…。
しばし絶句…が看護婦さん…そこはベテラン…プロ…すぐに気を取り直してお仕事に専念。
ノエルの方は…恥かしいも何も…痛みを堪えるのに必死でそんな気持ちはすぐに消し飛んだ。
際限なく幾度も襲いくる痛みに…さすがのノエルもお手上げ…黙っていようと思っても悲鳴にも似た声をあげてしまう。
院長や看護婦の指示も聞こえているけれど思うようにはできない。
分かるけど…それどころじゃないもん…。
西沢が汗を拭いてくれたり…手を握ったりしてくれる…。
忙しいのにごめんね…紫苑さん…また…徹夜だね…。
病院内を隈なく見て回ったが…HISTORIANはまだ院内には潜入していないようだ。
外来はすでに閉じたから正面玄関からは潜入できなくなったはずで入ってくるとすれば面会者専用の入り口…か職員専用の出入り口…。
そのままぼけっとそこに居たら人が変に思うだろう…仲根は一先ず分娩室の前に居る亮のところへ戻った。
「産まれるのを待っているのかもしれない…。
知らせてきた人の話では…狙いは赤ちゃんみたいなんだ…。 」
分娩室の前でじっと待っているノエルの家族に聞こえないように仲根はそっと亮に囁いた。
赤ちゃんですか…相手がHISTORIANだってことは…ノエルの赤ちゃんは完全体オリジナルの疑いを持たれているんですね?
でも…狙ってどうする気だろう…? まさか…殺したりはしないだろうけど…。
聞こえない…はずの会話だったが…智哉の耳にはちゃんと届いていた。
何とかせにゃならんな…。可愛い俺の初孫に手を出されちゃかなわん…。
その時…見知らぬ男が分娩室の方へ向かって歩いてきた。
亮の見知っているHISTORIANの外国人メンバーではなかったが、その場に緊張が走った。
男は智哉の前に立ち止まると恭しく一礼した。
智哉にとっても初めて見る男だったが、思わずつられて頭を下げた。
「私は添田と申します。 長より緊急にと…言付かって参りました。
西沢…木之内紫苑氏との御縁組により…家門に復帰されましたこと…謹んでお祝い申し上げます。
つきましては…業の禁忌を解き…主流男系に伝わるすべての奥義の使用を認めるとの長のお言葉にございます。 」
はぁ…? 男はいきなりわけの分からない話をし出した。
智哉は何と答えてよいか戸惑った。
家門復帰…? 主流男系…奥義…なんじゃそりゃ…?
どっか…おかしいんじゃないのか…こいつは…?
どこかとの連絡に走っていた玲人が戻ってきた。
智哉が知らない男を前に首を傾げているのを見て慌てて飛んできた。
「高木さん…この人は…あなたのご存じないご親戚からのお使いです。
何代か前のご当主が…その家のご出身なんですよ。
あなたに生命エナジーを育てる能力を伝えた方だと思いますが…。
その方に勝手に使ってはいけないと教えられた能力はありませんか…?
家門の長がその使用の許可を与えると言ってるらしいんですが…。 」
玲人は細かい事情を省いて手っ取り早く訊ねた。
う~ん…としばらく考えた後で…ないこともないが…今まで使う機会もなかったしなぁ…と智哉は答えた。
添田の方はやっと事情を理解した。
この男は自分たちの一族について何にも知らされてないんだ…と。
「それでは…確かにお伝え致しました…。 」
添田はこの緊急時に余分なことを説明すべきではないと判断した。
詳しいことは後日にでも…西沢たちが説明するだろうと…。
再び一礼すると智哉の前を辞し、今度は亮たちの居る方へと近付いてきた。
「あんた…内室方のエージェントだね…?
…とするとそちらにもあの電話が入ったんだね…? 」
仲根が問いかけると添田は誤魔化しもせずに頷いた。
「長から指令が出てな…。
胎児を護る為に高木智哉の力を最大限に使わせるように…と…産みの力は家門の特質能力だから…。
何しろ西沢先生の子どもはうちの主流の血も引いている…。
裁きの一族の両族の主流の血を受け継ぐのは…本来…宗主や長…限られた地位にある子どもだけだ…それもそれほど頻繁にあることじゃない…。
それが予期せぬところに現れた…。
両族にとっては久々に誕生するかもしれない新しい家門の芽なんだ…。 」
新しい…家門の芽…か…。
不思議なもんだな…終わろうとしている家門もあると言うのに…と亮は思った。
分娩室へ入ってから…すでに四時間近く…子宮口は開いているものの赤ちゃんはなかなか出てこない…。
早く…出てきて…お願い…。 だんだん息む力も弱くなってきた。
飯島院長と有…滝川が代わる代わる御腹の具合を見てはあれやこれや相談する。
やがて…意を決したように院長が西沢に近付いた。
「西沢さん…やはり…骨盤に問題があるようです…。
このままだと赤ちゃんは出たくても外へ出られないし…ノエルくんは産みたくても産めない…途中で骨盤に引っ掛かって詰まった状態なんです。
このままではふたりとも危ない…。
帝王切開に切り替えることをお勧めします。 」
院長にそう言われて西沢はノエルの顔を見た…。
疲れ切って弱々しげなノエル…。
「分かりました…院長…でも…少しだけ時間を下さい…。 」
西沢は立ち上がると…急いで分娩室を出た…。
廊下で待機している智哉を呼んだ…。
看護婦に頼んで仕度をして貰い…分娩室の中へ。
智哉は憔悴しきったノエルの顔を見て…思わず…うんうんと頷いた。
西沢はノエルの骨盤に問題があるため…胎児が引っ掛かって出て来られないことを話した。
有と滝川も自分の所見を述べた。 飯島院長も状況を事細かに説明した。
智哉はまず自分の眼でノエルの御腹の具合を確かめた。
確かに開いている子宮口の向こう側…産道で骨盤が邪魔をしている。
「ノエル…痛みは我慢できるな…? これまでよりずっと痛いかも知れん。
無理を承知ですることだ…。 だが…赤ちゃんには負担がない…。 」
智哉は今でさえやっと痛みに耐えているノエルに酷なことを言った。
それでも…ノエルは…うん…と答えた。
「気をしっかり持っていないと息めない…。 気い失うんじゃないぞ…。 」
うん…赤ちゃんが無事なら…僕…大丈夫だから…父さん…お願い…。
「西沢さん…動かないようにノエルをしっかり押さえててください。
気い失いかけたら叩き起こして…。
先生方…俺が胎内を視た限りじゃ…ひょっとしたら出血がひどいかも知れないんで…胎児が出たらすぐに処置をお願いします…。 」
西沢は言われたとおりにノエルを抱きかかえるように上から押さえ…院長とふたりの治療師はいつでも動けるように気を引き締めた。
智哉はノエルの御腹の前で大きく深呼吸した。
「ノエル…合図したら息むんだぞ。 」
父親にそう言われてノエルは素直にうん…と返事をした。
「うん…じゃねぇ…はい…だ。 」
智哉はそっと骨盤の位置に両手を当てた。
それはゆっくりと始まった…。
開かない骨盤を智哉の不思議な力が微量ずつ押し広げていく…。
だがもともと狭いノエルの骨盤はその力にも抵抗しようとする。
中心から身を裂かれるような痛みがノエルを襲う。
堪えようとしても反射的に叫び声が出てしまう…身体が激しく動く…。
西沢は必死でノエルを抱き押さえた。
人間の身体を急激に変化させるわけにはいかない…ノエルには酷だが…それは蝸牛がはうようにゆっくりと行われる…。
激しい痛みで気も狂わんばかりになっているノエルを抱きしめながら…こんなことなら帝王切開を選ぶのだった…と西沢は後悔した。
西沢を始め…有や滝川が手術を躊躇ったのは…すぐそこまで来ているHISTORIANの存在を考えたからだった。
もし…手術をすれば…ノエルは当分動けない…。
単に動くだけなら一日経てばトイレくらいは行けるが…子どもを抱えて素早くその場を逃げることなど…まず無理…。
今は周りの者が護ってやれるが…いつも傍についているわけにはいかない。
いくら喧嘩ノエルでも手術の後となれば普段のようには戦えない…。
自然分娩なら…産後の処置をすれば…体調が悪いなりに術後よりはましに動けるはず…それが西沢たちの考えだった。
「紫苑…さん…。 紫苑…さん…。 」
痛みの中で何度も西沢を呼んだ…。 ノエルの生きる唯一の支え…。
この世でただひとりノエルの心を満たしてくれる人…。
何の偏見もなく…ノエルという存在そのものを愛してくれる人…。
「ノエル…ごめんな…ごめんな…。 ひどい思いをさせてしまった…。
僕が代わってやれたらいいのになぁ…。 」
朦朧とした意識の中で…西沢の涙がぼんやりと見える…。
父さん…早く…紫苑さんが泣いちゃうよ…紫苑さんを悲しませないで…。
どのくらい経過したのか…智哉はふと…手ごたえを感じた。
胎児が動き始めている…。
「いいか…ノエル…行くぞ! 」
智哉が強めに力を入れた。 同時にノエルが息んだ…力振り絞って…。
胎児の頭が見えた…。 周りから思わず歓声が上がった。
するっと抜けるように胎児が新しい世界に出て来た。
智哉の差し出した手の中に…。
本物の産声が上がった。 眼を細めて智哉は生まれたばかりの孫を見た…。
また…取上げてしまった…息子の産んだ赤ちゃんを…。
そう考えると無性に可笑しくなった。
ノエル…御覧…新しい命だ…。
今度はちゃんと人間の赤ちゃん…男の子だよ…ノエル。
智哉はそっとノエルの方に両手を伸ばして…ノエルが産んだ小さな命を見せてやった。
次回へ
エナジーを産んだ時とは比べものにならない痛みにノエルは耐えていた。
男はちょっとしたことで情けない声をあげるなと…父親から厳しく教えられてきたけど…これは我慢できないかも…。
ノエルの周りには飯島院長…西沢家と同族のベテラン看護婦がひとり…西沢と滝川…そして有も緊急事態に備えて控えている。
少し前に玲人が何かを告げに来て…西沢が外に出たけれどすぐに戻ってきた。
急ぎの仕事でもあるんじゃないかな…?
そう思った途端にまた痛みの波が押し寄せる。
「紫苑さん…。 仕事…あるんでしょ…? 僕…ひとりで平気だから…。 」
苦痛に顔をゆがめながらも何とか笑顔を作った。
仕事は終わってるから大丈夫…と西沢は安心させるように言った。
お伽さまが無事を祈って安産の祭祀をしてくださっているそうだ…。
そんなふうに伝えた。
玲人の知らせはそれだけじゃなかった。
病院の周辺にHISTORIANがウロウロしているという。
早速…嗅ぎつけたな…。
鼻のいいやつめ…。
亮が分娩室の近辺を…御使者の仲根が病院内を巡回して奴等の動きを探っている。
分娩室に乗り込んで来ないとも限らないから注意しててくれ…と玲人は言った。
初めてのことでよくは分からないけど…何かおかしい…とノエルが言い出したのは夜中のことで…どうやら陣痛らしいと分かったのが今朝受けた検診…。
ノエルはそのまま特別室で待機しながら…時々起こる痛みと延々10時間ほどのお付き合い…。
陣痛の感覚が短くなって分娩室へ来て最初にショックだったのは…当たり前だけど看護婦さんの存在…。
だって…恥かしいじゃん!
いくら小母さん看護婦でも女は女…見られたくないもんがあるんだから…。
看護婦さんもこういうケースは初めてで…どういう顔していいんだか最初は戸惑っているようだった。
目の前に居るのは若い男の子…確かに御腹は大きいけれど…ないものはないし…出てるものは出てる…。
しばし絶句…が看護婦さん…そこはベテラン…プロ…すぐに気を取り直してお仕事に専念。
ノエルの方は…恥かしいも何も…痛みを堪えるのに必死でそんな気持ちはすぐに消し飛んだ。
際限なく幾度も襲いくる痛みに…さすがのノエルもお手上げ…黙っていようと思っても悲鳴にも似た声をあげてしまう。
院長や看護婦の指示も聞こえているけれど思うようにはできない。
分かるけど…それどころじゃないもん…。
西沢が汗を拭いてくれたり…手を握ったりしてくれる…。
忙しいのにごめんね…紫苑さん…また…徹夜だね…。
病院内を隈なく見て回ったが…HISTORIANはまだ院内には潜入していないようだ。
外来はすでに閉じたから正面玄関からは潜入できなくなったはずで入ってくるとすれば面会者専用の入り口…か職員専用の出入り口…。
そのままぼけっとそこに居たら人が変に思うだろう…仲根は一先ず分娩室の前に居る亮のところへ戻った。
「産まれるのを待っているのかもしれない…。
知らせてきた人の話では…狙いは赤ちゃんみたいなんだ…。 」
分娩室の前でじっと待っているノエルの家族に聞こえないように仲根はそっと亮に囁いた。
赤ちゃんですか…相手がHISTORIANだってことは…ノエルの赤ちゃんは完全体オリジナルの疑いを持たれているんですね?
でも…狙ってどうする気だろう…? まさか…殺したりはしないだろうけど…。
聞こえない…はずの会話だったが…智哉の耳にはちゃんと届いていた。
何とかせにゃならんな…。可愛い俺の初孫に手を出されちゃかなわん…。
その時…見知らぬ男が分娩室の方へ向かって歩いてきた。
亮の見知っているHISTORIANの外国人メンバーではなかったが、その場に緊張が走った。
男は智哉の前に立ち止まると恭しく一礼した。
智哉にとっても初めて見る男だったが、思わずつられて頭を下げた。
「私は添田と申します。 長より緊急にと…言付かって参りました。
西沢…木之内紫苑氏との御縁組により…家門に復帰されましたこと…謹んでお祝い申し上げます。
つきましては…業の禁忌を解き…主流男系に伝わるすべての奥義の使用を認めるとの長のお言葉にございます。 」
はぁ…? 男はいきなりわけの分からない話をし出した。
智哉は何と答えてよいか戸惑った。
家門復帰…? 主流男系…奥義…なんじゃそりゃ…?
どっか…おかしいんじゃないのか…こいつは…?
どこかとの連絡に走っていた玲人が戻ってきた。
智哉が知らない男を前に首を傾げているのを見て慌てて飛んできた。
「高木さん…この人は…あなたのご存じないご親戚からのお使いです。
何代か前のご当主が…その家のご出身なんですよ。
あなたに生命エナジーを育てる能力を伝えた方だと思いますが…。
その方に勝手に使ってはいけないと教えられた能力はありませんか…?
家門の長がその使用の許可を与えると言ってるらしいんですが…。 」
玲人は細かい事情を省いて手っ取り早く訊ねた。
う~ん…としばらく考えた後で…ないこともないが…今まで使う機会もなかったしなぁ…と智哉は答えた。
添田の方はやっと事情を理解した。
この男は自分たちの一族について何にも知らされてないんだ…と。
「それでは…確かにお伝え致しました…。 」
添田はこの緊急時に余分なことを説明すべきではないと判断した。
詳しいことは後日にでも…西沢たちが説明するだろうと…。
再び一礼すると智哉の前を辞し、今度は亮たちの居る方へと近付いてきた。
「あんた…内室方のエージェントだね…?
…とするとそちらにもあの電話が入ったんだね…? 」
仲根が問いかけると添田は誤魔化しもせずに頷いた。
「長から指令が出てな…。
胎児を護る為に高木智哉の力を最大限に使わせるように…と…産みの力は家門の特質能力だから…。
何しろ西沢先生の子どもはうちの主流の血も引いている…。
裁きの一族の両族の主流の血を受け継ぐのは…本来…宗主や長…限られた地位にある子どもだけだ…それもそれほど頻繁にあることじゃない…。
それが予期せぬところに現れた…。
両族にとっては久々に誕生するかもしれない新しい家門の芽なんだ…。 」
新しい…家門の芽…か…。
不思議なもんだな…終わろうとしている家門もあると言うのに…と亮は思った。
分娩室へ入ってから…すでに四時間近く…子宮口は開いているものの赤ちゃんはなかなか出てこない…。
早く…出てきて…お願い…。 だんだん息む力も弱くなってきた。
飯島院長と有…滝川が代わる代わる御腹の具合を見てはあれやこれや相談する。
やがて…意を決したように院長が西沢に近付いた。
「西沢さん…やはり…骨盤に問題があるようです…。
このままだと赤ちゃんは出たくても外へ出られないし…ノエルくんは産みたくても産めない…途中で骨盤に引っ掛かって詰まった状態なんです。
このままではふたりとも危ない…。
帝王切開に切り替えることをお勧めします。 」
院長にそう言われて西沢はノエルの顔を見た…。
疲れ切って弱々しげなノエル…。
「分かりました…院長…でも…少しだけ時間を下さい…。 」
西沢は立ち上がると…急いで分娩室を出た…。
廊下で待機している智哉を呼んだ…。
看護婦に頼んで仕度をして貰い…分娩室の中へ。
智哉は憔悴しきったノエルの顔を見て…思わず…うんうんと頷いた。
西沢はノエルの骨盤に問題があるため…胎児が引っ掛かって出て来られないことを話した。
有と滝川も自分の所見を述べた。 飯島院長も状況を事細かに説明した。
智哉はまず自分の眼でノエルの御腹の具合を確かめた。
確かに開いている子宮口の向こう側…産道で骨盤が邪魔をしている。
「ノエル…痛みは我慢できるな…? これまでよりずっと痛いかも知れん。
無理を承知ですることだ…。 だが…赤ちゃんには負担がない…。 」
智哉は今でさえやっと痛みに耐えているノエルに酷なことを言った。
それでも…ノエルは…うん…と答えた。
「気をしっかり持っていないと息めない…。 気い失うんじゃないぞ…。 」
うん…赤ちゃんが無事なら…僕…大丈夫だから…父さん…お願い…。
「西沢さん…動かないようにノエルをしっかり押さえててください。
気い失いかけたら叩き起こして…。
先生方…俺が胎内を視た限りじゃ…ひょっとしたら出血がひどいかも知れないんで…胎児が出たらすぐに処置をお願いします…。 」
西沢は言われたとおりにノエルを抱きかかえるように上から押さえ…院長とふたりの治療師はいつでも動けるように気を引き締めた。
智哉はノエルの御腹の前で大きく深呼吸した。
「ノエル…合図したら息むんだぞ。 」
父親にそう言われてノエルは素直にうん…と返事をした。
「うん…じゃねぇ…はい…だ。 」
智哉はそっと骨盤の位置に両手を当てた。
それはゆっくりと始まった…。
開かない骨盤を智哉の不思議な力が微量ずつ押し広げていく…。
だがもともと狭いノエルの骨盤はその力にも抵抗しようとする。
中心から身を裂かれるような痛みがノエルを襲う。
堪えようとしても反射的に叫び声が出てしまう…身体が激しく動く…。
西沢は必死でノエルを抱き押さえた。
人間の身体を急激に変化させるわけにはいかない…ノエルには酷だが…それは蝸牛がはうようにゆっくりと行われる…。
激しい痛みで気も狂わんばかりになっているノエルを抱きしめながら…こんなことなら帝王切開を選ぶのだった…と西沢は後悔した。
西沢を始め…有や滝川が手術を躊躇ったのは…すぐそこまで来ているHISTORIANの存在を考えたからだった。
もし…手術をすれば…ノエルは当分動けない…。
単に動くだけなら一日経てばトイレくらいは行けるが…子どもを抱えて素早くその場を逃げることなど…まず無理…。
今は周りの者が護ってやれるが…いつも傍についているわけにはいかない。
いくら喧嘩ノエルでも手術の後となれば普段のようには戦えない…。
自然分娩なら…産後の処置をすれば…体調が悪いなりに術後よりはましに動けるはず…それが西沢たちの考えだった。
「紫苑…さん…。 紫苑…さん…。 」
痛みの中で何度も西沢を呼んだ…。 ノエルの生きる唯一の支え…。
この世でただひとりノエルの心を満たしてくれる人…。
何の偏見もなく…ノエルという存在そのものを愛してくれる人…。
「ノエル…ごめんな…ごめんな…。 ひどい思いをさせてしまった…。
僕が代わってやれたらいいのになぁ…。 」
朦朧とした意識の中で…西沢の涙がぼんやりと見える…。
父さん…早く…紫苑さんが泣いちゃうよ…紫苑さんを悲しませないで…。
どのくらい経過したのか…智哉はふと…手ごたえを感じた。
胎児が動き始めている…。
「いいか…ノエル…行くぞ! 」
智哉が強めに力を入れた。 同時にノエルが息んだ…力振り絞って…。
胎児の頭が見えた…。 周りから思わず歓声が上がった。
するっと抜けるように胎児が新しい世界に出て来た。
智哉の差し出した手の中に…。
本物の産声が上がった。 眼を細めて智哉は生まれたばかりの孫を見た…。
また…取上げてしまった…息子の産んだ赤ちゃんを…。
そう考えると無性に可笑しくなった。
ノエル…御覧…新しい命だ…。
今度はちゃんと人間の赤ちゃん…男の子だよ…ノエル。
智哉はそっとノエルの方に両手を伸ばして…ノエルが産んだ小さな命を見せてやった。
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