「お疲れのようですね。今夜は飲みすぎないように!」と言ってくれる人はおりません。1人珍しく宅飲みしてます。知り合いのお寺さんの僧侶の奥様がお亡くなりになり、焼香してきました。ひとりで清めてます。享年53歳の若さでした。喪主の僧侶はまさかというほどやせ細ってしまい別人だと思ってました。ガンだそうです。最近、私たちの業界関係者でも亡くなる方が多いです。大震災で亡くなる人も気の毒ですが、人の命の儚さを痛感する今日この頃です。今ある命有り難し!
会社からまたトコトコ歩いて、一時帰宅しました。かなり気温が上がってきました。でも、小生は自粛モードで引きこもりランチです(冗談)。昨夜の残りのキムチ鍋をご飯にぶっかけて丼にしていただいております。キムチとスジコをおかずに…(^^;)
★Think positive!
「前向きに考えよう!」
オシッコも前向きにしないとね!
春彼岸
さとりの種を
いただかん
(三木照国)
今回の大震災で思うのは、浄土真宗本願寺八世蓮如が撰述した御文であります。本当に命の無常を感じさせます。吉田兼好さんが「死は前よりしも来たらず、かねて後に迫れり」と言いました。誰にも避けられないものですが、あまりにも痛ましいことであります。第一人称の出来事として捉えると「言葉」も空しく思えます。もう一度、蓮如上人の御文章を胸に刻みたいと思います。
それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら觀ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。
されば、いまだ萬歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露(つゆ)より繁しと言えり。
されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)の装いを失いぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半(よわ)の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれといふも、なかなか疎かなり。されば、人間の儚き事は、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。
【意訳】
さて、人間の内容の無い生活の様子をよく考えて見ますと、およそ儚いものは、人間の生まれてから死ぬまでの間のことで、それは幻のような生涯です。
それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人がいたなんてことを聞いた事がありません。人の生涯は過ぎ去りやすいものです。今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか。〔人の死とは、〕私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない、人より後であろうが先であろうが、草木の根元に雫が滴るよりも、葉先の露が散るよりも多いといえます。
それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕には白骨となる身であります。もはや無常の風が吹いてしまえば、即座に眼を閉じ、一つの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔がむなしく変わってしまい、桃やすもものような美しい姿を失ってしまえば、一切の親族・親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうする事もできない。
そのままにはしておけないので、野辺に送り荼毘に付し、夜更けの煙と成り果ててしまえば、ただ白骨だけが残るだけです。哀れと言っただけでは言い切れない。人生の終わりは、年齢に関わりなくやってくる。だからどのような人も「後生の一大事」を心に留めおき、心から阿弥陀仏に頼み申上げて、念仏申すべきであります。
それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら觀ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。
されば、いまだ萬歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露(つゆ)より繁しと言えり。
されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)の装いを失いぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半(よわ)の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれといふも、なかなか疎かなり。されば、人間の儚き事は、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。
【意訳】
さて、人間の内容の無い生活の様子をよく考えて見ますと、およそ儚いものは、人間の生まれてから死ぬまでの間のことで、それは幻のような生涯です。
それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人がいたなんてことを聞いた事がありません。人の生涯は過ぎ去りやすいものです。今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか。〔人の死とは、〕私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない、人より後であろうが先であろうが、草木の根元に雫が滴るよりも、葉先の露が散るよりも多いといえます。
それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕には白骨となる身であります。もはや無常の風が吹いてしまえば、即座に眼を閉じ、一つの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔がむなしく変わってしまい、桃やすもものような美しい姿を失ってしまえば、一切の親族・親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうする事もできない。
そのままにはしておけないので、野辺に送り荼毘に付し、夜更けの煙と成り果ててしまえば、ただ白骨だけが残るだけです。哀れと言っただけでは言い切れない。人生の終わりは、年齢に関わりなくやってくる。だからどのような人も「後生の一大事」を心に留めおき、心から阿弥陀仏に頼み申上げて、念仏申すべきであります。
天気が冴えませんが、確実に春に向かってます。
今日は「春分の日」です。
【Wikipedia】
(祝日法)によって制定された。祝日法では「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ことを趣旨としている。1947年(昭和22年)までは、春季皇霊祭という祭日だった。
仏教各派ではこの日「春季彼岸会」が行われ、宗派問わず墓参りをする人も多い。
青森市
3月21日(月)
09時 5℃
12時 6℃
15時 5℃
18時 2℃
21時 1℃
春めくややぶありて雪ありて雪
(道を行くと藪があり、その根元には残雪がまだ深く残っている。進んで行くとまた藪があり、また雪が続く。けれども、何となく春めいて、春はもう近いと感じられることだ)。
今日は「春分の日」です。
【Wikipedia】
(祝日法)によって制定された。祝日法では「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ことを趣旨としている。1947年(昭和22年)までは、春季皇霊祭という祭日だった。
仏教各派ではこの日「春季彼岸会」が行われ、宗派問わず墓参りをする人も多い。
青森市
3月21日(月)
09時 5℃
12時 6℃
15時 5℃
18時 2℃
21時 1℃
春めくややぶありて雪ありて雪
(道を行くと藪があり、その根元には残雪がまだ深く残っている。進んで行くとまた藪があり、また雪が続く。けれども、何となく春めいて、春はもう近いと感じられることだ)。
夕べは久しぶりにNHK大河ドラマ「~江~姫たちの戦国」を見ました。柴田勝家と市の越前の北庄城で自害するシ-ンには涙を流しました。ドラマはいよいよ豊臣秀吉の天下統一が加速します。江たち三姉妹も各々運命に弄ばれますが、強く生きていきます。徳川家康の時代はまだ先のことですが、この時期、彼はじっと世の流れを睨んで、充電していたのでしょうね。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、いそぐべからず。(徳川家康)
「徳は得たり」さすが泣くまで待とうホトトギスであります。
「伏すこと久しきは飛ぶこと必ず高し」と「菜根譚」にも書かれております。忍耐が飛躍のバネになります。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、いそぐべからず。(徳川家康)
「徳は得たり」さすが泣くまで待とうホトトギスであります。
「伏すこと久しきは飛ぶこと必ず高し」と「菜根譚」にも書かれております。忍耐が飛躍のバネになります。