青森県立美術館へ来ました。昨日降った残雪が目立ちます。招待券をいただきました。先日、青森郷土館で開催された、和次郎さんの弟で銅版画家の純三さんの展示会を見たので関心がありました。考現学者としての視点で生活をリアルに写し取る和次郎さんの観察眼に圧倒されました。弘前生まれの郷土の先輩に柳田國男先生と並ぶ人がいることを誇りに思いました。
【略歴】
1888年(明治21年) 青森県(現・弘前市)の生まれで。家業は医者。5人兄弟の真ん中。
1906年(明治39年) 東奥義塾中学卒。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学
1912年(明治45年) 東京美術学校図案科卒。岡田信一郎の薦めで早稲田大学建築学科助手に採用される(小間物係だった)
1917年(大正6年) 早稲田大学の佐藤功一教授の誘いで「白茅会」に参加。柳田國男の調査に同行するようになる
1918年(大正7年) 「民家図集 第一輯 埼玉県」白茅会(民家調査の最初の報告書)
1920年(大正9年) 早稲田大学教授
1922年(大正11年) 朝鮮半島で民俗調査に従事(朝鮮総督府の委嘱による)
同年「日本の民家 田園生活者の住家」(鈴木書店)を刊行。
1923年(大正12年) 9月、関東大震災。10月、震災後の銀座に「バラック装飾社」を興す。
1924年(大正13年) 朝鮮総督府から「朝鮮調査特別報告 第一冊民家」を刊行
1925年(大正14年) 初の考現学調査「銀座街風俗」を行ない、『婦人公論』に発表
1927年(昭和2年) 「しらべもの(考現学)展覧会」新宿紀伊国屋、。「考現学」を提唱
1930年(昭和5年) 『モデルノロヂオ』出版(吉田謙吉と共著)
今は民家研究で業績を挙げたが、考現学研究などのため、柳田國男に「破門」(本人談)されたと称したが、一方で、柳田の方は、和次郎の弟子・竹内芳太郎に「破門した覚えはない、君からそう伝えておいてくれ」と答えている。
「考現学」という発想は後にも大きな影響を与えており、赤瀬川原平、藤森照信らの「路上観察学会」の先駆者ともいえる。【Wikipedia】