e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

栗拾いとふく蛙

2010年08月27日 | 趣味の園芸
昨日、昼食を食べていると、親父が妙なことを言い出した。



「毎朝、奥の栗畑に栗を拾いに行くと、栗の木の下を“ふく蛙”がノッシノッシと歩いとんねん。あんな蛙、この辺であんまり見んようになったから、明日の朝、お前カメラ持って栗拾いに行った方がええぞ・・・。」



私は昼食前にも、先週下草刈をした別の場所の栗拾いを約1時間かけてしてきたばかりだった。それと言うのも、下草を刈ってから一度も栗を拾っていないと親父が言ったからだ。



だからこの話も、自分で栗を拾うのが大変なので、代わりに私に拾って欲しいという意味だと解釈した。



さすがの親父もこの暑さでへばっているのと、やはり年齢なのだ・・・



これは大変なことと予想し、昨日は15時過ぎから奥の栗畑に栗を拾いに出かけた。



私の予想は的中し、親父は、拾いやすい場所の栗だけを、さらに収穫しやすいイガの栗だけを毎日?拾っていたのだ。



私は、親父が日ごろ拾い残した栗の収穫作業を、蚊の大群に襲われながら日没まで続けた。



(本当なら、二上山に沈む夕日の撮影に出かけたかったのに・・・)



そして今朝、親父と家人と私は、奥の栗畑に“ふく蛙”の観察と栗の収穫に出かけた。



毎朝いるのよりやや小さめ?の“ふく蛙”も無事登場し、昨日の頑張りの成果もあって、栗の収穫はスムーズに終了した。



兵十のモデル

2010年08月27日 | 自宅から東へ
『ごん狐』に登場する“兵十”にもモデルがいたようです。


当時、岩滑新田に“江端兵重”という人がいました。


彼は田すき名人と言われ、牛を使って田をすくのがうまかったといわれています。


魚とり、はりきりあみや狩猟もうまく、大雨の時は必ずはりきりあみの猟をしたと伝えられています。


“新美南吉記念館”には、彼が使用したという銃が展示されていました。


彼がよく魚とりやはりきりあみをしていたというのが“矢勝川”です。


この川は、中山と権現山の間を東西(岩滑の北側で半田市と阿 久比町の境)に流れ、幅は3メ-トル程でした。


物語の中にも「村の小川の堤」という表記があり、

ごんはこの堤を歩いている時、魚を獲る兵十の姿を見かけ、

びくの中の魚やうなぎを逃がすといういたずらをしてしまったのです。


この川の堤が100万本の彼岸花で真っ赤になる頃が、“ごん狐”の話の季節だと思います。

2週間ほど訪れるのが早すぎたようです。


「写真;兵十が魚を獲っていた矢勝川 

     黄色く見えるのは“ででむし広場”

     向こうに見えるのは権現山 」


新美南吉の家

2010年08月27日 | 自宅から東へ
今回の旅では、3軒の“新美南吉の家”を訪ねた。


1軒目は“新美南吉の生家”。


畳屋と下駄屋を営んでおられた様子。


家の前には道を隔てて“常夜灯”。


この“常夜灯”は南吉の童話に登場してくるらしい。


常夜灯の基壇の石にはいくつもの窪みがあり、


その窪みで幼い南吉は草をすり潰す遊びをしていたのだという。


2軒目は“はなれの家”だが、今は残っておらず立て札のみ。


昨日のブログに載せたが、生家が手狭になったので父が少し離れたところに後に購入したのだという。


南吉は生家とはなれの家の間を何度も往復したことだろう・・・

その道中の八幡神社の近くで、“ごん狐”の話を村の長老から聞いたという設定なのだ。


3軒目は“南吉養家”。


彼は8歳で亡くなった本当のお母さんの実家(新美家)に養子に出された。


この家を一目見たとき、“ごん狐”の兵十の家のモデルではないのかと思ってしまった。


そしてこの家で暮らした南吉は“ごん”ではなかったのかと・・・


【新見南吉の生い立ち】

本名は渡辺正八といい、大正2(1913)年に半田市岩滑に生まれた。

4歳の時にお母さんが亡くなり、6歳から新しいお母さんに育てられた。

お父さんは畳職人で、新しいお母さんは下駄、雑貨などを売っていた。

8歳のときに、亡くなった本当のお母さんの実家(新美家)に養子に出されたが、寂しさのあまり、5ヶ月でお父さんのもとに帰ってきた。

































ごん狐の話のはじまり

2010年08月27日 | 自宅から東へ
これは、私が小さいときに、村の茂平といふおぢいさんからきいたお話です。
 むかしは、私たちの村のちかくの、中山といふところに小さなお城があつて、中山さまといふおとのさまが、をられたさうです。
 その中山から、少しはなれた山の中に、「ごん狐」と言ふ狐がゐました。ごんは、一人ぼつちの小狐で、しだの一ぱいしげつた森の中に穴をほつて住んでゐました。そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出て来て、い たづらばかりしました。はたけへはいつて芋をほりちらしたり、菜種がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手につるしてあるとんがらしをむしりとつて、いつたり、いろんなことをしました。


これは『ごん狐』のはじまりの文章です。

今回の旅で私は、“中山”や“権現山”を歩いてきました。

時代も変わり、“中山”【写真㊤】の横には“新美南吉記念館”が建ち、“中山”は“童話の森”と呼ばれていました。

“ごん”が住んでいたとされる“権現山”【写真㊥】には、昔、狐が住んでいたようです。ごんに逢いたくて、かなり探したのですが・・・・やっぱり逢えませんでした。

それより私が気になったのが、「村の茂平といふおぢいさんからきいた」とされる場所・“宝蔵倉”があった付近の景色とその道だったのです。

その場所は“新美南吉の生家”とその生家が手狭になったので父が後に購入したという“はなれの家”との間にある大きな神社(八幡神社)【写真㊦】の石の鳥居の横だったからです。

彼は“生家”から“はなれの家”へ帰る道中に、『ごん狐』の話を練りながら歩いていたのでしょうか。神社の境内で足を止め“ごん”と話をしていたのかもしれませんよね。

ごんに会いに知多半島へ

2010年08月27日 | 道路・鉄道・船
栗が落ち、彼岸花が咲く季節になると、


“ごん狐”の話を思い出す。


残念ながら私の口から出て来る言葉は


「ごん、お前だったのか・・・」だけ・・・

昔、我が家の蔵に火縄銃があった。


私は小さい頃、その銃を構えてよく遊んだものだ。


だが“ごん狐”の話を知ってからは、


火縄銃を見ると悲しくなってしまい、

その遊びもいつの間にかしなくなってしまった。

“新美南吉記念館”が愛知県・知多半島中央部の半田にあるという。


この日曜日、私は無性に“ごん”に逢いたくなりガソリンを満タンにして、 


名阪国道→東名阪自動車道→伊勢湾岸自動車道→知多半島道路 と


片道160km、所要時間2時間の日帰りの旅に出た。























国道169号南下

2010年08月27日 | 道路・鉄道・船
先日、国道169号を吉野・川上村へ南下。


その途中に昔、“吉野離宮”があったという“宮滝”を通過。


“宮滝”と言うが、いわゆる滝はない。


滝と言うのは、水が滾(たぎ)る瀬のこと。滾るは、辞書を引くと「水などがわきかえる」、「激しく流れる」、「さかまく」と言う意味になっている。


だから、宮滝は水が滾る宮処という意味だという。
宮滝を神仙郷に例えることもあるが、まさにその趣のある場所。


万葉集で吉野川の流れは「たぎつ河内」「夢のわた」「川淀(かわよど)」等と詠まれ、柿本人麻呂が女帝の持統天皇の吉野行幸に供をして来た時には、
 山川も 依りて仕ふる神ながら たぎつ河内に 船出せすかも  


と詠んでいる。


吉野川に架かる「柴橋」のたもとには石碑が建ち、吉野川流域で最大の「宮滝遺跡」が在る。ここから出土した縄文時代後期の土器には「宮滝式」の名称が付けられている。


また遺跡の北側から飛鳥時代以後~平安時代初期の建物跡も発見され、656年女帝斉明天皇が「吉野宮」を造ると「日本書紀」に記された“吉野離宮”と推定されており、吉野へ行幸した天皇は、応神天皇から聖武天皇まで8人で、その間約440年余だという。


672年6月大海人皇子が近江朝打倒の為ここから出陣し、後で「吉野の盟約」を行った。


また、女帝持統天皇は在位9年間に31回吉野へ行幸したと伝えられているそうだ。

案山子路

2010年08月27日 | 県内
“もうこの森”からの帰り、少し寄り道をして石舞台古墳を南へ。


目的は稲渕の棚田にある“案山子路(かかしロード)”。


彼岸花の開花にはまだ少し早く、残念・・・


しかし、棚田の農道に沿ってたくさんの案山子が私を迎えてくれた。


第12回明日香神奈備かかしコンテストが開催中だったのだ。


【趣旨】


明日香のお米と農村風景を守ってきた「かかし」。
この風景を後世に残していくためには、明日香で生まれ育った人や明日香を愛する人々が主体となって取り組むことが何よりも大切です。
その一環として、田んぼの風景の象徴である「かかし」を広く募集し、展示することで、明日香らしい田園風景を醸し出すのです。


【応募方法】


 ●かかしは、今年のテーマ『元気』にそったものを作成すること。
 ●たて・よこ2m、重さ20kgまで。
 ●応募は、1人1体。
 ●かかしと、必要事項を記入した応募用紙(こちらから郵送いたします)を、
  8月26日(日)午前9時から正午までに、稲渕の棚田ハウスにご持参ください。
 ●原則として、応募作品は返却しません。       


 【かかしの展示・入賞の発表】


 ●8月26日(日)より11月下旬まで、稲渕のかかしロードで展示します。
 ●コンテストは、彼岸花祭り9月23日(日)の来客の投票により各賞を決定し、当日3時過ぎに発表します。
 ●他のコンテストでの入賞作品は、審査対象から外させていただきます。


【賞】
 最優秀賞  1本 ・・・ 賞品:明日香稲渕棚田新米(玄米)30kg
 優 秀 賞   3本 ・・・ 賞品:       〃         20kg
 特 別 賞   1本 ・・・ 賞品:       〃         10kg
 佳   作  10本 ・・・ 賞品:       〃          5kg
  ※応募者全員に参加賞があります。


もののけの森で

2010年08月27日 | 県内
レイボーガーネットを一目見たくて入ってしまった“もののけの森”。


たった一人で深山に入ったのは、何年ぶりのことだろう?


昔は単独行“加藤文太郎”に憧れ、何度も一人で山に登ったものだ。


あの日、私を受け入れてくれた“もののけの森は、


はじめは静かすぎるくらいに静かだった・・・


出会った人は、谷への入り口の川でフライフィッシングを楽しんでいた釣り人2人だけ。

その後、それらしい場所でレインボーガーネットを探すも見つからず・・・


目の前の光景は無残、木の根を切りその下の土まで抉って掘られた穴、


表土がすべて剥ぎ取られた岩など。


まさに“兵どもが夢のあと”・・・


遅い昼食を食べていると、山斜面上部で何かの気配?


そして私の右3mくらいのところに拳大の石がバウンドしながら落下してきた。


私は周囲の気配に神経を尖らせた。


さらに同じ場所から2~3個の落石が続く。


道路横で見た「熊に注意!」の看板が頭の中を過ぎった。


今度は私の左側にも落石。


私は帰り支度を急ぎ下山をはじめた。


しばらく下ると涸れた谷筋というか道?に柘榴石らしき鉱物を見た。


それは当麻寺から二上山への登山道で見た柘榴石の赤い色とは少し違って薄い色。


足を止め、今下りてきた道を振り返ると、やや西に傾きかけた太陽からの木漏れ日で、地表の鉱物のいくつかが虹色に輝いているのが美しかった・・・






































もののけの森へ

2010年08月27日 | 県内
県内の鉱物についてインターネットで調べていたら、不思議な文に出会った。

その方が言うには

映画『もののけ姫』の舞台は奈良・吉野だというのだ。

・ 大和朝廷に滅ぼされたのは蝦夷だけではない。

  他の氏族や部族も・・・

・ 神々の住む山は大峰山である。

・ “アシタカ”という苗字は奈良・葛城の地域に多い。

・ 吉野の天川周辺で鉄鉱石を産出する。

・ 「シシ神」は大台ケ原の伝説「いっぽんだたら」だ。

・ もののけ姫の山犬はニホンオオカミ。

  ニホンオオカミが最後に捕獲されたのは東吉野。


私はこのブログを読んでからレインボーガーネット探しに出かけたのだ。


尋ねた森はまさに“もののけの森”に見えた。


レインボーガーネットを探していると、山斜面の上部で何かの気配?

すると、私を狙ったかのように上から拳大の石が続けて何個も落ちてきた・・・































レインボーガーネット

2010年08月27日 | 県内
最近、辰砂をはじめ鉱物に少し興味がある。



そんなある日、インターネットで県内の鉱物を検索していたら、“レインボーガーネット”の美しい写真を見かけた。



レインボーガーネットについて調べてみると、



2005.8.2のasahi.comにこうあった。



“世界的に珍しい鉱物レインボーガーネットが奈良県で見つかった。メキシコ産が宝石として流通していたが、産出が止まったらしく、ここ10年ほど市場から姿を消していた。見つかった日本産はメキシコ産に匹敵する質の良さといい、英文の専門誌「宝石と宝石学」05年夏号に報告される。



発見したのは、同県大和郡山市の会社員(31)ら鉱物愛好家グループ。昨年9月、古くからガーネットの産地として知られている天川村で、レインボーガーネットらしい石を見つけ、付近を探索して鉱脈を突き止めた。



 レインボーガーネットはガーネット(ザクロ石)の一種(灰鉄ザクロ石)のさらに特殊なもの。薄い膜状構造のため光の干渉で七色の虹などの複雑な色が見える。



 世界数カ所でしか見つかっておらず、大量に産出したのはメキシコだけだ。天川村産の一部は研磨、カットされ、宝石として出回り始めている。



 うわさを聞いた愛好家や業者が4月以降、急に増えた。天川村役場と奈良県警中吉野署は6月中旬、鉱物などを無断採取しないよう求める札を付近の木に掲げたが、すでに地表近くの石はほとんど拾いつくされている。”

吉野でこんな美しい石が採れてたって知らんかった・・・



こんな記事を読んだら、レインボーガーネットのかけらを一目見たいと思うやんか!



ネットではおおよその場所しか分からない。



山の空気を吸いたくなって、吉野山中へ行ってみることにした。



キーワードは“行者還岳”だ!

「写真;行者還岳」


桜鮎

2010年08月27日 | グルメ
昨夜は“夏を送る会”。


東吉野の山中に集まり鮎を食べ、酒を飲んだ。


清流吉野川が育んだ鮎は、元気で色美しい様から、


また苔と一緒に桜の花びらを食べるなどの言われから


“桜鮎”と呼ばれ親しまれてきた。


一昨日、この店の駐車場にはポルシェをはじめ高級外車が並んだとのこと。


その方々のために、店は国産の松茸を仕入れたのだという。


そのお裾分け?を我々が戴くことになった。


国産なんていつからやろか?


幸せやった・・・


それからは鮎づくし


刺身、塩焼き、鮎めしetc・ ・・


酒は地酒の“明神平”。


料理にあって最高だった。


店の前の道を西へ少し戻ると丹生川上神社の中社、


東へ進むとやがて林道終点となる。


そこから歩いて1時間半ほど山に登ると開けた草原に出る。


その場所が“明神平”。


高校生の頃、何度も登った懐かしの地だ。


昨夜の鮎が、おそらく今シーズン最後の鮎になるだろうとお店の方が教えてくれた。


大阪と台湾

2010年08月27日 | アジア
台北の交差点で目に付いたのが、この信号機。



横断歩道を渡る歩行者用のもの。



青信号の時、上部に数字が表示されるのだ。



数字はどんどん減っていき、やがて下の緑色の人間も慌て出す。



(動画で撮影しとけばよかったと反省している。)



台湾での生活についてガイドから、信号機を守らないドライバーもいるので道路横断時にはしっかり左右の確認をするようにと注意を受けた。



それに全体的にセッカチらしい。



30年以上も前から、大阪・梅田の横断歩道にも数字を示す信号機があったよなぁ~。



あれは赤信号での待ち時間を示してたんやったかなぁ?



妙にこの信号機が私のリズムに合っているような気がした。



今夜も台湾食堂へ

2010年08月27日 | アジア
月と共に台湾の話を終わらせたいので、“今夜も台湾食堂へ”。


私にとってアジアの旅は食事がありがたい。


それは米があるからだ。 e411yでは辛かった・・・


今回の旅では朝食に“粥”も頂ける。それが嬉しい!


(食べすぎと飲みすぎの胃には、やっぱり粥がいい)

ある日の昼食は“モンゴリアンバーベキュー”。


店内に入りテーブルを決めると、食材コーナーへ。


大きな丼に好みの肉(牛・豚・鳥・羊)と野菜を好きなだけ入れ、自分で味付けをする。


それをカウンターに持って行くと、お店の方が焼いてくれるのだ。(写真㊤)


その他に鍋料理とご飯や寿司、デザートも食べ放題。おかわりも自由だった。


ある日の夕食は“石鍋料理”(写真㊥)。


具沢山の鍋を空にするとそこに麺が入る。麺をあげるとさらに“おじや”を作ってくれた。


ボリューム満点で味も良く、鍋好きの私にはピッタリだった。


台湾最後の食事は空港で・・・


後悔のないように、食べてみたかった“牛肉麺”(写真㊦)を昼食すぐのお腹に入れて帰国した。


今夜,台湾食堂へ

2010年08月27日 | アジア
数年前だったか、“志村けん”と“金城武”が共演したCMがTVで流れていた。



たしか「今夜、台湾食堂へ・・・」って言っていたような記憶があるのだが、あれは一体何のCMやったんやろうか?



今回の旅では、その二人が写った写真の飾ってある台北のレストランに昼食に行った。



点心、特に小龍包が美味しい店だというのだが食べるのに夢中だったので、小龍包の写真を撮るのを忘れてしまった。



いろいろ食べたが、大根餅が印象的だったと思う。



台湾最後の夜、夕食後ホテルに入り、休憩の後はお決まりの夜の散歩。



ガイドブックに載っていた“担仔麺”の美味しい店でも“志村けん”の写真を発見したのだが、家人が「満腹やし、カキ氷食べたい!」と言い出したので、その店の隣のカフェ?に入った。しかしいろいろあって、結局私が食べたのは牡蠣の入った“蚵仔麵線”。



ただこの“蚵仔麵線”、ドロッとしていて私はビール無しでは食べられない。



ビールを注文するとこの店には置いてないと云う・・・



でも、私は「ビール飲みたい!」と店員に訴えたのだ。



この店に入店してから何か言葉が通じないことがあると、隣の店で宴会中の日本企業に勤務しているという台湾人の女性が何度も呼ばれて通訳に来てくれる。



ビールもその女性が隣の店に注文してくれて、お隣の店からビールの出前が来た。



あまりにも楽しい店(カフェ?)だったので、旅の記念に店員さんが着ていた店のTシャツを土産に買って帰ることにした。



台湾のバイク事情

2010年08月27日 | アジア
今回の旅で感動したのは台湾のバイク事情。

特に台北の街での走りっぷりと停めっぷり。

ガイドさんの話によると、1.8人に1台の割合でバイクがあるのだとか 。

子どもと老人を除くと、1人1台所有していることになる。

それが通勤・通学の足になっているようだ。

広い道路で信号が赤になり自動車が停止すると、

後ろからバイクが車と車の間やバイク専用レーンを使って一番前へ集まってくる。

そして青信号でGO! 猛ダッシュをかけて目的地を目指すのだ!

小さく見えるのだが、およそ125CCクラスのスクーター。

中には4人乗りをしている人も見かけた。

省エネと駐車スペースが少なくて済むというW効果は魅力的だった。