11番から一気に20番まで紹介する。
11番 仲源寺 雨やみ(あめやみ)が目病み(めやみ)
東山区四条通大和大路東入ル祇園町南側585-1
正式名 寿福山仲源寺
創設 定朝(仏師)
宗派 浄土宗
本尊 千手観音座像(重要文化財)
四条通河原町は、京都一番の繁華街だ。東に向かい八坂の西門を目指すと途中に仲源寺はある。気づく人も少ないが、眼病の御利益がある。
京には「洒落(言葉遊び)」のお寺が多い。上京区の石像寺では、八寸釘とくぎ抜きを貼りつけた絵馬が奉納される。「くぎぬき」(釘抜き)と「くぬき」(苦抜き)の洒落である。
仲源寺こちらは、以下の逸話による。
平安中期創建のこのお寺は、当初鴨川のすぐ近くにあった。鎌倉時代になると大雨が続き、鴨川が氾濫した時、こちらの本尊の地蔵尊に雨やみを祈願したところたちまち雨は止んだ。そこで防鴨川使が中原氏であった事から朝廷より「仲源寺」の寺名を頂いた。「あめやみ」(雨やみ)から「めやみ」(眼病み)の洒落で、眼病地蔵に転じた。
境内は狭く自由に出入りできるが、本尊の地蔵様を拝み本堂右手の定朝作千手観音坐像の前に佇むとその大きさに圧倒される。重要文化財指定だが、平安仏師定朝の作が確かなら国宝でも良いのではないか。
また、頭上に奉納された提灯の多さに驚くが、ほとんどが周辺のお茶屋さんか芸子・舞妓の名前が連なる。山門の上の額には、「好晴奇雨」とあり、中国の詩で、(雨のときには奇観をなし、晴天の景色もまたよいこと)と言う意味である。
12番 正伝永源院 元総理大臣の襖絵が見れる寺
東山区大和大路通四条下る小松町586
創設 正伝院 普覚 永源庵 無涯
宗派 臨済宗
本尊
京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。
祇園花見小路を四条通から南下し建仁寺の西手前にあるのが正伝永源院。大勢の観光客で賑わう情緒あふれる通りから一筋西にひっそりと存在する。正伝院と言う寺と永源庵と言う寺の合併寺院である。何か、三井住友、三菱UFJが頭に浮かぶのは筆者だけか。
本堂の中心には、右に「正伝院」左に「永源庵」と扁額が並ぶ。永源庵は、南北朝時代の建仁寺第39世の無涯が創建し守護大名の細川頼有が深く帰依した。その為代々の細川氏との関係性は現代まで続く。正伝院の方が古く鎌倉時代に中国僧普覚禅師が創建した。長く荒廃していたのを織田有楽斎が再興し、隠居所と茶室「如庵」が建てられた。その後、明治時代の神仏分離令での廃仏毀釈の大混乱の中、正伝院に永源庵を寄せる形で両寺院は統合した。時の細川伯爵の計らいで寺名に永源庵を残す意向で正伝永源院と決まった。
因みに、その時の混乱の中で多くの寺宝が他所に流出した。国宝茶室「如庵」も現在はレプリカである。それでも文化的遺物は多く、織田有楽斎像や細川頼有像始め狩野山楽の襖絵などは有名だ。
中でも必見は、細川護熙作の襖絵だ。平成25年に24面の大作が奉納された。第79代内閣総理大臣というより芸術家だったのだ。最初から芸術家で良かったのに・・・・。
因みに、庭も見事で心字池を中心に紅葉などの配置が絶妙だった。拝観は季節限定なので注意が必要だ。京都は大寺院も良いがこのように小さくとも趣き深い寺が良い。
13番 長楽寺 建礼門院が出家した寺
山号 黄台山
宗派 時宗
本尊 准抵観音
開基 最澄
丸山公園の東、東大谷のすぐ北に参道がある。東山三十六峰長楽寺山に向かってだらだらと坂道を登る。桓武天皇勅願のお寺で、伝教大師が自ら彫った准抵観音が御本尊だ。完全秘仏だが、新天皇即位時には特別に御開帳があり令和になった5月~6月の16日まで公開していた。東本願寺の飛び地、大谷祖廟と並行して参道が続く。以前は、大谷祖廟の敷地まで長楽寺の境内だったらしい。ここは建礼門院徳子の、出家のお寺で有名だ。平清盛の娘で、安徳天皇の母であるが、源氏に追われ壇ノ浦に入水するものの助けられ、出家。その後大原「寂光院」に隠棲した。後白河院がそれを訪ねる「大原御幸」は有名な話だ。
鐘楼の鐘は、大晦日、除夜の鐘を、一人ずついつまでも突かせてもらえる。当然108回にこだわらない。
庭は、相阿弥の作庭。
また、頼山陽の墓地でもある。
以前、大晦日に訪ねたことがあるが、その時は大勢の参拝者がいて、広い境内と言う印象だったが、
一人訪ねると、こじんまりした良いお寺だった。
途中、明治のたばこ王、村井吉兵衛の邸宅。「長楽館」を見る。
日本で最初に両切り煙草を製造販売した英雄だ。
行商で苦労をした後、「サンライス」そして第2弾の「ヒーロー」が大ヒットし巨万の財を成した。
長楽寺のふもとに長楽館。今は、高級な茶房になっていて誰でも入れる。
14番 西福寺 美人でも死ねばみんな醜い姿に
正式名 桂光山敬信院
創設 蓮性和尚
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。
正伝永源院から花見小路に戻り、建仁寺の中を南に通り抜ける。京都の大きな寺院は境内が生活道路になっている事が多く、建仁寺も祇園から五条清水坂や六波羅辺りに抜けるには便利だ。京都は寺も特別な存在ではなく便利ならば自転車でも通り抜けて行く。
そして、六道珍皇寺に立ち寄り、すぐ近くの西福寺を訪ねる。この辺りは京の葬送の地である鳥辺野の入り口に当たる為、昔からあの世とこの世の境目とされた。六道珍皇寺には有名な平安初期の公卿小野篁「冥途通いの井戸」がある。その井戸を通じて地獄の閻魔大王にも仕えていたという。そして、西福寺当たりの辻が、まさにあの世との境目だ。轆轤町と言う町名が物語る。
西福寺の有名なのは、檀林皇后「九相図」である。なんと自らの死後の様子を絵に残させたものが残っている。嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子(檀林皇后)は、絶世の美女との評判だったが仏教への帰依深く、諸行無常の教えを体現すべく「どのような美女も皮一つ隔てて血と肉の塊であり鳥や獣の餌となり腐乱し白骨化して土に還るのみ」と、自らの遺体を埋葬せず路傍に放置させて、その変化を絵にさせた。9段階の変化を「九相図」と言う。
以下がその9段階、ウキベディアより
1. 脹相(ちょうそう) - 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。
2. 壊相(えそう) - 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。
3. 血塗相(けちずそう) - 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。
4. 膿爛相(のうらんそう) - 死体自体が腐敗により溶解する。
5. 青瘀相(しょうおそう) - 死体が青黒くなる。
6. 噉相(たんそう) - 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。
7. 散相(さんそう) - 以上の結果、死体の部位が散乱する。
8. 骨相(こつそう) - 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。
9. 焼相(しょうそう) - 骨が焼かれ灰だけになる。
拝観はお盆の時など限定される。その時にその絵は掲げられる。ぞっとする事間違いない。周辺の霊気漂う雰囲気も合わせて味わいたい。10度涼しい。
15番 法住寺 京にたくさんある身代わり地蔵の一つ
東山区三十三間堂廻り町655
別称 後白河上皇法住寺殿
創設 藤原為光
宗派 天台宗
本尊 不動明王(身代わり不動)
京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。
西福寺からすぐの六波羅蜜寺を訪ねて、東大路を南に向けて歩く。智積院や妙法院を左に見ながら七条通まで20分~30分かけて行くと京都国立博物館や三十三間堂が右手に見えて来る。平清盛が後白河上皇の為に1000体の千手観音像を寄進したのが蓮華王院(三十三間堂)だ。片頭痛持ちであった後白河の影響で周辺に頭痛封じの寺院が多い。
さて、その昔、源頼朝挙兵の後、木曽の源義仲が京を襲う。平家を追い出す大殊勲を挙げるがその後の後白河上皇からの論功第一は、頼朝であった。ブチ切れた木曽義仲は、ここ院御所を包囲した。ここで歴史の中心地に出て来るのが、法住寺である。創建は平安中期の藤原為光であるが、平安末期、この平家合戦の時に注目される。
往時の寺域に比べれば見る影もないが、今にその歴史を伝えている。本堂は自由に参詣できる。正面の本尊は不動明王像。義仲に襲われ火中から後白河が逃げる為に、身代わりになった事から「身代わり不動」と呼ばれる。その大祭は11月15日護摩供養と共に盛大に行われる。狭い境内だが派手に護摩を焚く光景は必見だ。また、ぜんざいの接待などあるので筆者は毎年尋ねる。なお、その身代わり不動を直筆にて住職が書いたカレンダーが販売される。これも毎年楽しみだ。
因みに、忠臣蔵の大石内蔵助との所縁深く12月14日には「義士大祭」も行われる。
寺域東側の後白河天皇陵は宮内庁管轄となっている。必ず合わせて訪ねておきたい。
16番 今熊野観音寺 頭痛・ボケ防止など頭の病気にご利益
別称 新那智山 観音寺
宗派 真言宗泉涌寺派
本尊 十一面観音(秘仏)
開基 空海
京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。
法住寺のあとは、蓮華王院はもちろん、北隣の血天井の養源院にも立ち寄りたい。因みにその隣は赤十字血液センターだ。血天井の隣が血液センターとはよく出来たものだ。東大路通に戻るとさらに南下し泉涌寺を目指す。徒歩15分から20分くらいだ。第一山門を入れば緩やかなカーブを歩きながら今熊野観音寺を訪ねる。
開基は空海だが、嵯峨天皇の時代に藤原緒継によって伽藍が整備され「法輪寺」として完成した。本尊は、空海が熊野権現から賜った一寸八分の十一面観音像を胎内仏(仏像の胎内に仏像を納める)とした空海自ら刻した一尺八寸の十一面観音像(秘仏)だ。白河上皇の時代になりこの辺りを紀伊国熊野に対して今熊野と言われ修験の地として栄え「東山観音寺」と呼ばれるようになる。さらに曾孫の後白河上皇になり新那智山の山号を授けて「今熊野観音寺」とした。同時に新熊野神社も造営された。いずれも(イマクマノ)と読むが、寺は今熊野、神社は新熊野である。後白河はこちらの観音様に頭痛を治してもらった。
境内は自由参詣で入り口階段下には、子護大師像と呼ばれる巨大な空海像が迎えてくれる。石段を上がるとすぐに空海が自ら錫杖で掘り当てた「五智の井戸」がある。日本全国には空海が掘ったと伝わる井戸はいくつあるのだろうか。また頭痛封じに加え同じ頭の病気であるボケにも効果があると言う観音様も迎えてくれる。
また、こちらのもう一つの特徴は四国88か所巡りを一日で巡ることが出来る「お砂踏み法要」だ。大講堂の中に四国88か所のお寺から砂を集め、一か所ずつお砂踏みをしながら願いを込めて回るのだ。毎年9月21日~3日間の今熊野観音寺恒例の重要行事である。
普段は静かな境内で、つい数年前朱色鮮やかに塗りなおした多宝塔である「医聖堂」など丁寧に巡ればたっぷり小一時間かかる古刹である。
17番 雲龍院 本堂での写経で心を洗う
東山区泉涌寺山内町36
正式名称 別格本山 那智山雲龍院
宗派 古義真言宗
本尊 薬師如来
開基 後光厳天皇
参道に戻り泉涌寺の山門を左に見て、さらに東方奥に進むと雲龍院がある。筆者は知人を京都案内する時には、必ずメニューに入れるお気に入りの寺院だ。
雲龍院は、室町時代の北朝初代の後光厳天皇が開基であり南北朝統一時の後小松天皇まで北朝5代の天皇所縁の寺だ。楽しみは、庭と写経だ。まず手入れの行き届いた庭園を眺めながら一服のお茶を頂く。「悟りの窓」として有名な真ん丸の窓を通して、四季の変化を楽しむ。そして客間の一室の「色紙の窓」と言うのがこちらの最大の見どころだ。指定された座布団に座ると障子に四つの小さなのぞき窓、左から椿、燈籠、楓、松とそれぞれ違った景色が色紙のように楽しめる、季節によって主役が変わるのもうれしい。
色紙の窓
また、本堂である「龍華殿」(重要文化財指定)の中で行える写経は是非おすすめだ。まず、「丁字」と言う木の実を乾燥させた特別なものを口に含み口内を清める。次に手に塗香をすり込み身を清める、その高貴な香りに気分も一気に引き締まる。最後に酒水(特別に祈祷された清水)を頭にかけてもらって心を清める。そこで初めて机に向かう。うっすら下書きのある半紙に朱の墨で丁寧に般若心経を書いていく。自分一人だけの龍華殿内は、完全な静寂である。仏と対峙しているとややもすれば恐怖感すら感じるが、一心に書いていると時間の経過も忘れる。完成した写経は仏前に納めて帰る。ひと時、室町時代にタイムスリップしたような高揚感を味会う。重要文化財と言う国宝に準じる建物を一瞬でも独占できるのはここだけではないか。
なお、寺宝には、土佐光信作の後円融天皇御真影、大石内蔵助の書いた「龍淵」の墨蹟など重要なものが多い。また北朝の後光厳天皇、後円融天皇、後小松天皇、称光天皇に加え、後水尾天皇以降多くの天皇の御尊碑が安置されるなど皇室との関係は格別である。
最後は、もう一度庭園を眺め、しばらく感慨にふけって帰ることにする。床の間に掛け軸
「子子子子子子子子子子子子」
御存じのこの言葉遊びは、「ねこのここねこ、ししのここじし(猫の子子猫、獅子の子子獅子)」と読む。
東山区泉涌寺山内町29
正式名 泉山 戒光律寺
別称 丈六さん
宗派 真言宗泉涌寺派
本尊 釈迦如来
開基 浄業
雲龍院から参道に出て、来た道を戻る。数分歩けば右手に戒光寺が見える。筆者は何度も見逃してしまったので、注意して訪問したい。拝観寺ではないので本堂に上がるには勇気がいる。古いガラス扉を開けると巨大な釈迦如来像が迎える。鎌倉時代に運慶・湛慶の親子が彫った丈六の像である。丈六とは仏の正確な身の丈である一尺六寸(4.85m)の仏像の事だ。当初は大宮八条にあり、一条戻り橋から三条へと転々とし後水尾天皇の発願により泉涌寺の塔頭寺として現在地に移転した。素朴な本堂の中で厳粛な中、圧倒的存在感の釈迦如来を拝む。この仏像は、「身代わりの丈六さん」と言われる。
実はこのような話がある。後水尾天皇は東宮政仁親王時代に皇位継承の争いに巻き込まれていた。ある日寝室で就寝中、暗殺者に寝首を掻かれた。ところがその時、このお釈迦様が身代わりになって自らの首を切らせたと言う。朝になって見ると確かに、仏像の首には血痕が残っていたのだと言う。現在もはっきりとその跡がうかがえる。訪れる人は余りないが、歴史マニアには見逃せないお寺だ。観光気分では行けないがこのような素朴なお寺にも是非立ち寄りたい。
19番 即成院 いつでもすぐ極楽に連れてもらえるお寺
東山区泉涌寺山内町28
正式名 光明山 即成9
宗派 古義真言宗
本尊 阿弥陀如来
開基 橘俊綱
戒光寺のすぐ西隣の、即成院を訪れて泉涌寺を最後にしたい。
現世極楽・来世極楽の両方を即日実現していただけるお寺である。阿弥陀様が25の菩薩を従えてあの世にお連れ下さる。まだまだ死にたくない人は、今日ではなく後日にすべきだ。
即成院は平安初期に恵心僧都の源信が創建したとも言われるが、平安中期の歌人橘俊綱が創立者である。当初、「臥見堂」と記録にあり「迎接之体」が安置されていたと伝わる。その迎接之体こそが、阿弥陀如来が諸菩薩を連れて亡者を西方極楽に導く仏像群の事である。そのうち10体は創建当時のものでその他15体も含め重要文化財だ。
注目は、その仏さまたちが一年に一回、本堂から出てきて「お練り行列」をしてくれる。「25菩薩お練供養法要」と言う当寺最重要行事である。(10月第3日曜辺りに開催)このように仏像のかぶり物をして動く仏が庶民の前に姿を現す趣向は全国各地で行われているようだ。京都府舞鶴市の松尾寺では「仏の舞」と言う重要無形文化財に指定されている行事が有名だ。こちらは阿弥陀如来・大日如来・釈迦如来の3大如来が勢ぞろいする。
なお、当寺は平家物語の英雄那須与一の墓がある。海上遠くの平家が掲げる扇の的に見事矢を打ち抜いた武将である。現在は、的を射る事から「恋の的を射る」恋愛成就のお守りが配られる。
京都の寺院のお守りや絵馬はなんでも有りなのだ。
20番 龍吟庵 無関普門の幼い時の過酷な運命を現わす庭
東山区本町15丁目812
正式名 東福寺 塔頭
宗派 臨済宗東福寺派
本尊 宝冠釈迦如来
開基 無関普門
京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。
泉涌寺第一山門を出ると、すぐ左に曲がると住宅地を抜ける東福寺への近道がある。しかし迷う事間違いないので、東大路に一旦戻り南に折れて三差路を左に道なりに東福寺へ向かう。
言うまでもなく奈良の東大寺と興福寺から一文字ずつ取って寺名を付けた臨済宗大本山だ。
その第一等の塔頭龍吟庵は、寺域の東北にある紅葉の絶景ポイントである「偃月橋」を渡ると正面にある。東福寺3世無関普門の居住宅跡でもある。国宝の「方丈」が最大の見どころだ。室町初期の現存最古の方丈建築物で、書院造に寝殿造りの風合いをとどめる貴重なものである。そして、東西南の三方の重森美玲作の見事な庭園群も良い。特に東庭は「不離の庭」(幼い無関普門が回復の見込みがない酷い熱病にかかり、山中に捨てられた時に2頭の犬が現れて狼からの襲撃を防いだとされる姿を石組で表わしている。)は、敷石が赤く何処の枯山水庭園とも違う趣を見せていて必見である。いずれも京都検定的には必須の知識だ。
紅葉の季節である11月に限定で公開している。例えば雪の積もる風景など見てみたいものである。
☞ しかし無関普門の親はむごい事をするものだ。回復不能とは言えまだ熱のある我が子を放置するとは。