第19番 建勲神社
京都市北区紫野北舟岡町49
御祭神 贈太政大臣贈正一位 織田信長公
配 祀 従三位左近衛中将 織田信忠卿
西陣地区を眺める
織田信長を御祭神に祀る神社がある。日本は「八百万の神の国」と言われるように家康も秀吉もみんな神様になった。もっと言うならば、靖国では「英霊」と言うように国に殉じた人はすべて神様になる国が日本なのだ。
拝殿前
場所は「船岡山」。京都三山という、「双ヶ岡」「吉田山」と合わせてそう呼ぶ。いずれも神聖な場所とされる。すぐ南には「西陣」、北には大徳寺の伽藍が広がる地域だ。本殿のある場所からは、西陣地区から東方の左京区方面、遠くには比叡山も眺められる。大鳥居からの石段は数分で本殿にたどり着くが、不摂生の小生は早くも息が上がる。途中、信長が好んで謡ったとされる「敦盛」の一節が石碑となって置かれている。さらに一段上に、拝殿・本殿と続く。拝殿の内面周辺には、信長の強力な配下の36人の武将の絵が飾ってある。正面に向き直り、作法通り天下国家の繁栄を祈る。
「敦盛」の石碑
戦国の世を泰平に導いた信長は、明智光秀の謀反により本能寺に倒れた為か、いつまでもファンは多い。歴史は天下統一を目前に光秀が天下を簒奪しようとしたとされるが、小生は信長の狂信的な権力志向については限界があったと考える。西の毛利氏や東に上杉氏・北条氏などの梟雄がまだまだ天下への望みを持ち、光秀以外の配下の武将も戦乱に明け暮れ疲弊の極致にありさらに、本願寺など宗教界を長く敵に回すなど脆弱な状況にあったとも言える。そう考えると、謀反は光秀以外にも可能性があったのではないか。
本殿
なお、昨今の戦国ブームに加え「歴女」の出現で、多様な御朱印やお守りなどのグッズが多種多様になっている。社務所の受付の前に立つと、「凶の出やすいおみくじ」という看板。他の神社よりも凶の数を多くしておりますと言う。面白い。こうなれば運試し、凶を出すために挑戦した。結果はめでたく凶だった。神社の人の説明によると、「凶が出れば今が一番悪い時」「これから運気上昇」との事。なるほど、めったにおみくじなどしない小生も思わず引いてしまった。しかもその内容は徹底して悪いもので、旅行・商売・婚姻・願望すべて叶わずであった。婚姻以外はショックだった。
因みに、秀吉がこの地に追悼の寺(天正寺)を建立しようとしたが生前に間に合わず、時代を経て明治天皇より建勲神社の神号を賜り、永久に国家安泰・万民安堵の神とし、崇められるようになった。このように現実社会で英雄と称えられた人物の遺徳をしのぶ神社も京都には多いのだ。