7.着眼点の2
最近、鎌倉幕府の成立の年代がいつなのか議論になったが、一方、そもそも鎌倉時代の名称についても疑問が呈されている。奈良時代・平安(京都)時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代と時の政権のあった場所で時代の名称を決めて来た。しかし、鎌倉時代に政権の中心が鎌倉にだけあったのか?幕府と言っても3代までで、その間京都の朝廷の権威・権限は明確に存在した。しかも4代目以降の将軍は宮家から招へいしたもので北条政権はその権威の下で執権として政治をしたに過ぎない。後鳥羽上皇以降、ほとんど実権はなく後継天皇も自ら決められない皇室になってしまったが、まだまだ無視できない権威を備えていたのだ。さらに鎌倉幕府の京の出先機関である六波羅探題の存在も大きく、鎌倉にだけ政権の中心地があったように解釈する鎌倉時代という呼称は実情に合わないと言うのだ。そこで教科書には「京・鎌倉時代」という時代呼称に近々なるらしい。
しかし京都以外の地に政権が存在した事実は大きい。そのような大きな時代の節目に後鳥羽上皇の闘いは、天皇の復古活動の初見であろう。「主上ご謀反」と言われたのは後醍醐天皇だが、謀反とは本来奉公する親分に刃向かう場合に使う言葉だ。権力の頂点に立つはずの天皇に「謀反」は当てはまらないはずだ。しかし後醍醐に対してご謀反と言う。それ以前に後鳥羽上皇の仕掛けた戦いは鎌倉から見れば「ご謀反」と解釈したのだろう。以降、武力で政権に謀反?する天皇は後醍醐以外に出て来ない。一方で武士たちは犯しがたい皇室の権威を敬いつつ利用した。男系男子という父親をたどれば必ず天皇に繋がる継承形態は、単純だが庶民には決して真似できない。犯しがたい神秘性は壊さなかったのだ。ここまで古代の昔には皇室に成り代わる皇統の危機はあったかも知れないが、この時代以降現在に至るまでの「国体」はここに定まったとみる。