アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

994回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊾

2023-03-22 10:55:33 | 日記

⑤ 東福門院和子との関係  恐ろしや高貴な「血の戦い」

徳川和子 - Wikipedia東福門院

 ここで、後水尾天皇の皇子・皇女を、お相手ごとに羅列する。A~G7名の方々から36名のお子様を生ませておられる。もちろん記録に残るものに限られる。腫物に悩まされるもののすこぶる健康な天皇が、多くのお子を成すのは大変結構な事だ。高貴な方達の重要な役目の一つが「生殖活動」である事は何度も書いて来た。しかし、不自然ではないか。健康な男子であれば生殖に最適な年齢は、10代後半から20代前半である。ところがおよつ御寮人事件の四辻与津子との間の2名以外には、20代のみならず譲位するまでは、その中宮徳川和子との間しか子がいない。女性に興味の薄い天皇ではない。上皇となって多くのお子を作っている事から見ても晩年までお元気でいらっしゃる。まことに不思議なことだ。幕府に遠慮して、在位中は側室を持たなかったのか。あるいは・・・。

そのあたり、熊倉功夫氏『後水尾天皇』中公文庫(第3章寛永6年11月8日譲位)には、細川三斎(忠興)が当時の世間の噂を息子の忠利に書状で書き送った内容を紹介している。なんとその中に、衝撃的箇所があった。後水尾の退位の理由を縷々書いているのだが、「御局衆のはらに宮様たちいかほども出来申候を、おしころし、または流し申し候事」という。つまり、隠れた(言えない)理由として、天皇の中宮以外の女官に出来た皇子が殺されたり流されたりしていたというのだ。つまり、徳川家の直系の子以外には決して皇統を継がせないという事である。文面からは複数のお子が処分されたことと思われる。そのあたり前出の川口氏の小説には、四辻与津子との間にできたお子も毒殺された事を示唆している。

 確かに、女帝である女一宮(明正天皇)という徳川家の血筋が即位してからは、猛烈な勢いでお子を成していらっしゃるのだから、噂とはいえあり得る話である。一方、それでも和子との間に2名の男子が誕生している。しかし、二人とも早世である。これも不自然ではないか。成長したのはすべて皇女である。偶然なのか。徳川家と朝廷のどす黒い戦いがあったのである。後水尾天皇は今までの天皇と違って武力は行使できなかったが、皇室の血統を守る為ものすごい戦いを行っていた。

 ただ、救いはお二人が、「琴瑟相和す」関係であったのだろう。中宮和子との間には計7名のお子が出来ている。前出の小説でも、初夜に早くも天皇は警戒心を解き、その純粋で無垢な人柄に魅了されたとなっている。確かに今に残る和子の肖像を見ると、可愛いお顔をされている。また教養にあふれ京都の多くの寺院の再興にも努めている。さらに、東福門院(和子)臨終の折りには、枕頭にはおよつ御寮人の子文智女王がいたという。なぜかホットする話だ。それにしてもげに恐ろしや高貴な「血の戦い」というものは。

後水尾天皇 - Wikipedia 後水尾天皇

資料 後水尾天皇(上皇)皇子・皇女一覧(A~Gのお相手別、出生順に記載)

A中宮:徳川和子(東福門院)(1607-1678)

B典侍:四辻与津子(?-1638)

C典侍:園光子(壬生院)(1602-1656)

D典侍:櫛笥隆子(逢春門院)(1604-1685)

E典侍:園国子(新広義門院)(1624-1677)

F典侍:四辻継子(権中納言局)(?-1657)

G宮人:水無瀬氏子(帥局)(1607-1672)

 

以下、アルファベット後の数字はお子の誕生時の後水尾の数え年齢

B23第一皇子:賀茂宮(1618-1622)

B24第一皇女:文智女王(1619-1697)円照寺

和子入内

A28第二皇女:興子内親王(明正天皇)(1623-1696)

A30第三皇女:女二宮[注釈 1](1625-1651、秋月院妙澄大師)

A31第二皇子:高仁親王(1626-1628)

A33第三皇子:若宮(1628)

A34第四皇女:女三宮昭子内親王(顕子内親王)(1629-1675)

譲位後

D36第五皇女:理昌女王(1631-1656) - 宝鏡寺宮門跡

A37第六皇女:女五宮賀子内親王(1632-1696) - 二条光平室

C38第四皇子:紹仁親王(後光明天皇)(1633-1654)

D38第五皇子:某(1633)

A38第七皇女:菊宮(1633-1634)

D39第八皇女:光子内親王(1634-1727)

C39第六皇子:守澄法親王(1634-1680) - 初代輪王寺宮門跡、179代天台座主

G40第九皇女:新宮(1635-1637)

C42第十皇女:元昌女王(1637-1662)

G42第七皇子:性承法親王(1637-1678) - 仁和寺御室

D42第八皇子:良仁親王(後西天皇)(1637-1685)

D44第九皇子:性真法親王(1639-1696) - 大覚寺宮門跡、東寺長者

C44第十一皇女:宗澄女王(1639-1678)

D45第十二皇女:摩佐宮(1640-1641)

E45第十皇子:尭恕法親王(1640-1695)- 181・184・187代天台座主

C46第十三皇女:桂宮(1641-1644)

D46第十四皇女:理忠女王(1641-1689)

E47第十五皇女:常子内親王(1642-1702) -近衛基熙室、徳川家宣御台所近衛熙子の母

D48第十一皇子:穏仁親王(第3代八条宮)(1643-1665)

F50第十二皇子:尊光法親王(1645-1680) - 徳川家光猶子・知恩院宮門跡

D52第十三皇子:道寛法親王(1647-1676) - 聖護院宮門跡、園城寺長吏

E54第十四皇子:眞敬法親王(1649-1706) - 一乗院宮門跡、興福寺別当

F56第十八皇子:盛胤法親王(1651-1680) - 183・186代天台座主

E56第十六皇子:尊證法親王(1651-1694) - 182・185代天台座主

F59第十六皇女:文察女王(1654-1683)

E59第十九皇子:識仁親王(霊元天皇)(1654-1732)

E62第十七皇女:永享女王(1657-1686)

 

※         熊倉功夫氏『後水尾天皇』118頁と、インターネット情報などを参考に筆者作成

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993回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊽

2023-03-22 08:18:19 | 日記

④         春日の局  遂に幕府に宣戦布告した。

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 従来からの通説では、差し迫った事情というのは、天皇の腫物による「鍼灸治療問題」だと言われている。腫物とは、腫瘍のことで民間では、「でんぼ・おでき」とも言う。現代なら外科手術で切除できるが、良性のものでも熱や痛みを伴ったりすると命の危険を伴い厄介なものだった。当時は、針灸がよく効くとされたが、玉体(天皇の体)には鍼灸はタブーとされた。従って、譲位して自由な身となって治療を受けたかったというのだ。後水尾天皇は、基本的にはとても健康だったのだが、腫物ができやすい体質だったらしく、よほど悩ましい状況だったのだろう。因みに、叔父の八条宮智仁親王が同じ病で死去している。

 しかし、最近の研究ではそれは、譲位する「口実」であり、便宜的な理由でしかないという見方が有力だ。やはり本当の理由は前項で述べた「紫衣事件」である。しかし加えて、さらに許しがたい事件が重なった。それが「春日の局」参内問題である。以下、緊迫感ある経緯を時系列で書くと。

寛永6年 8月    幕府、天皇へ譲位の延期を要請

8月27日 和子女子出産(またしても徳川家血統の男子誕生の夢破れる)

             これを受けて、家光の乳母「お福」を使者にして天皇の実情を伺いに派遣決定

    10月10日 お福改め「春日の局」 天皇に拝謁し天盃を賜る

    10月15日 後水尾天皇から土御門泰重に密命降る

    10月24日 宮中で神楽 春日の局のみ見学(後水尾参加せず重大決心をする)

    10月27日 土御門泰重に女一宮を内親王に叙すことでの調査指示   

    10月29日 女一宮(東福門院和子長女・明正天皇)を内親王に叙す

    11月 2日 中院通村を大納言に昇任

    11月 8日 公家衆に伺候命令  その場で譲位伝える。

 以上の経緯を眺めると、そこまでの許しがたい状況に加えて、無位無官の武家の娘「お福」が幕府の使いとして参内することがきっかけになって、後水尾天皇がにわかに行動に移していることが分かる。因みに、お福とは、本能寺の変における明智光秀の第一の侍大将であった斉藤利光の子である。本来なら、「謀反人の子」なのだが、家光の乳母として大奥に揺るぎない地位を築いた女性である。簾内とは言え無位無官では天皇に拝謁できない為、急きょ「従三位春日の局 藤原福子」の称号を与えた。何故、これほど光秀ゆかりの人物を重用したのだろうか。「本能寺の変」を徳川家康の陰謀とする説は、このような事実から出ている。話を戻す。従来なら、このような重大決定は幕府に許可を取るか、せめて事前に伝えなければならない。その様な手続きも飛ばしている。

 遂に、幕府に宣戦布告したようなものだった。最後は、一人の公家とも相談せずおひとりで決断したようだ。しかし、もっと許せないことがあった。

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