- 幕府の実情 元寇以降の幕府衰弱と各名門家の分裂
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さて、この間の幕府の事情を確認する。承久の変で完全に朝廷を抑え込んだ幕府だったが、鎌倉時代の中ごろに、結果として幕府滅亡に至る大事件が起こった。「元寇」である。文永11年(1274年)の文永の役、弘安4年(1281年)の弘安の役である。まさに、後嵯峨天皇から後深草天皇を経て亀山天皇に至る「両統迭立」の起因となった時点と重なる。幕府を揺るがす「萌芽が二つ」芽生えた時期であったのだ。元寇は、「神風」をもって守ったが、我々現代の人間は、その後元が衰弱することを知っている訳だが、当時の鎌倉幕府にとっては最大の政治課題が、「九州の防備」となった。外敵に対する備えは、内戦と違って勝者はいない。従って、論考行賞(ご褒美)がない。御家人たちは疲弊するのみであった。さらに、幕府の西国支配が強くなったおかげで、東国の幕府官僚たちが京都の公家との関りを持ったことは大きい。「国難」と言われた当時は一致団結したが、徐々に脅威が去り政治闘争の時代となり、それに朝廷内の2流派の争いが微妙に重なって来る。現在想像する以上に、東西の御家人の交流も増えたと考える。東国支配の鎌倉幕府、西国支配の朝廷という関係から始まった鎌倉時代は、中盤から大きく変化した。
元寇からわずか50年後には、後醍醐天皇が登場し倒幕に至るのであるが、幕府支配は、将軍独裁(3代実朝まで)、執権の絶対権力(義時から時宗までか)、そして北条得宗家支配へと変化し、その取り巻きと北条家とは距離のある反北条家の御家人たちに分かれて行く。そして、放蕩執権高時が登場し完全に無力化する。有力御家人の離反が相次ぎ、「敵の敵は味方」とばかりに朝廷(後醍醐)に期待が集まる。足利高氏と後醍醐の合流はこのような背景の中で、誠に危うい、あやふやなものであった。
また、源氏である足利家も新田家との確執があり、平氏である北条家も分裂に分裂を繰り返し、藤原家も皇室もそれぞれ分家を繰り返していた。収拾がつかないそれぞれの細分化した名門家を完全に統括する「聖主・賢王待望」の気運が高まっていた。『太平記』序文にあるように、「天の徳を体し、知の道に従う」ものが世を治め太平の世を迎えるのだ、という庶民感情も高まっていた。そこに現れた、延喜・天暦の時代(平安中期、醍醐天皇・村上天皇)の天皇親政を目指す後醍醐天皇に一瞬「聖主・賢王」の幻影を見たのかも知れない。