スモン石鹸初場所は、角龍の連敗で、栃ノ心の平社員優勝の可能性が出て来た。
琴光喜が平成13年に達成して以来の快挙になる。スモン石鹸は、入社すると、
十両からは、化粧まわし(派手な営業姿)が与えられる。
(お試し見習い)序の口~(見習い)序二段~(準社員)幕下と昇進しここまでは無給だ。
そして、(下部社員)十両~(平社員)幕内、そして管理職候補として、(主任)小結~(係長)関脇~(課長)大関
以上を三役という。
主任と係長は、成績で上がり下がりを繰り返す。課長でやっと一定の保証が付く。
2回の販売キャンペーンを連続で負け越した場合のみ降格する。しかし、次のキャンペーンで10勝以上すれば復帰する。
課長の中から、販売キャンペーン2回連続優勝かそれに準ずる成績で、部長ランクの「トップセールス」の称号を得る。
大事なのは、販売力だけではなく「心技体」の充実が求められる事だ。
トップは正しいセールストークで美しく販売しなければいけない。
成績が不振でも降格しないので、心技体のいずれかが無くなると「引退」を勧告される。
そして、引退後は役員として残る。しかも営業マン時代の成績がその後の人事にも影響するのだ。
以上の階級の中で、平社員がトップ販売をし優勝するのは極めて珍しい事なのだ。
平社員優勝の琴錦社員。
スモン石鹸の国有地払い下げ問題は、さしたる証拠も出ず、野党と朝日新聞のねつ造との疑いが残った。
しかし、スモン石鹸特別顧問の豊田真由子もさすがにまいった。
何故、私の行く先々でトラブルがおこるの?(涙)
さて、
昨日25日は、天神さんの縁日である。21日の弘法さんと2日間は京都の重要日である。
それぞれ、菅原道真と空海の命日に当たる日だ。特に1月は、初弘法・初天神と言って特に賑わう。
落語の「初天神」にあるように昔から庶民の楽しみでもあったようだ。
落語の方は、天満の天神さんであるようだが、本場北野の天神さんも負けず賑やからしい。
6月25日が祥月命日だが、没日も2月の25日となっている。
その日は、梅花祭とし北野上七軒のきれいどころの「野点」なども行われる。
そして、12月25日は「終い天神」となり1年を終了する。
それにしても菅原道真はなぜそこまで崇められたのか?
天神さんになるのは、相当な怨霊にならなければならない。
早良親王や崇徳上皇のような方々は、大魔王となるしかない。
菅原道真はどうか?
西暦900年前後、宇多天皇の時代右大臣として政務全般を任されていた。左大臣は藤原宗家の時平。もちろん左大臣の方が偉い。
しかし、見識において勝る道真に嫉妬した時平の、讒言(告げ口)により、左遷される。
台頭する藤原氏に対して、毅然と意見する道真は藤原氏からは邪魔であった。
それでも、阿衡の紛議に際しては、藤原基経に諭すなど高い見識を発揮し
宇多天皇の「寛平の治」と言われる天皇親政を支えた。醍醐・村上天皇の時代を特に「延喜・天暦の治」という。
因みに、後醍醐天皇はその時代の政治を目指した。そのあとは後村上天皇である。(天皇の贈名も意味が深い)
しかし、宇多天皇の醍醐天皇への譲位、基経の没後、小心者の時平に陥れられた。「昌泰の変」と言われる。
「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」辞世の句を残して九州で死去。
その後、時平は39歳で病死。醍醐天皇の皇子は尽く病死する。遂には、朝議の最中、御所に雷が落ちる。
多くの死亡者が出て、醍醐帝もその後すぐ薨去する。
恐れた、朝廷は道真の罪を許した。雷神となった道真の神格化がここから始まる。
なお、学問の神様にふさわしく相当な知恵者であったことは間違いないが、一方で多くの女性に多くの子供をもうけた。
悪所(遊女のいるところ)にも好んで通っていたらしい。因みに、桃太郎もかぐや姫の話も、道真の原作と言われる。(諸説ある)
京都の人はよく言う。「弘法さんが晴なら、天神さんは雨。」しかし、今日の京都は雪景色であった。
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