㉛ 平安京 31代 通算80代 高倉天皇
在位 1168年~1180年
業績(事件) 源平合戦へ
父 後白河天皇
別称 特になし
死因 病死
御陵 後清閑寺陵
宝算 21歳
父後白河と清盛に翻弄される。
高倉天皇の最大のジレンマは、平家と後白河院との確執だった。
母が、後白河上皇の後半生に最も寵愛した女性である建春門院滋子(清盛の妻時子の妹)であった為、後白河院からは大変に愛された。本妻である中宮よりその後の寵姫をより愛するのは、世の常である。後白河からすれば15歳年下の滋子と間はまさに琴瑟相和す中であった。(肌が合う?)一方、高倉天皇の中宮の建礼門院徳子は清盛の実娘(従って天皇と中宮はいとこ同士)なので周りを平家で固められている。さらに、後の安徳天皇が生まれるとすぐに譲位を迫られるという複雑な立場になる。従って、後白河院と清盛の蜜月関係にある間は良かったが、「鹿ケ谷の陰謀」以降、両者の関係が決定的に壊れた後は、高倉院の身の置き場がなくなる。
しかし天皇の評価は高く、「神皇正統記」始め、いずれの資料にも徳深い天皇として書かれている。臣下にも誠実に接し、管絃の素養もあり歴代最高の天皇と絶賛している。在任中、厳島神社に天下平安の祈願に行幸するなど、善政に努めた。しかし、時世には逆らえず、以仁王(弟君)と源頼政の反乱から治承の大乱へと運命が変転して行く。母、建春門院がもう少し長生きしていれば後白河と清盛の関係が崩れる事もなかったが、高倉天皇の在位中、天皇15歳で亡くなる。建春門院滋子の死因は二禁(腫物)であるが、50歳の後白河院の悲しみは深く、そして平家との関係も終焉を迎える。そして高倉上皇も、激動の最中、21歳と若い崩御であった。平家滅亡を見ずに亡くなった事はせめてもの慰めか?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます