第7章 続き ☆ 幕府と朝廷の茶番
光格上皇の後、仁孝天皇へ
その後の朝幕関係を象徴するエピソードとして面白い論文がある。これも藤田氏の著書『泰平のしくみ』(岩波書店 2012年)から紹介しておく。光格天皇譲位後、文政10年(1827年)天皇は仁孝天皇だが、将軍家斉が太政大臣に昇進している。その時の仁孝天皇の「御内慮書」が残っている。それには、「徳川家斉の文武両面にわたる功労はぼう大である。」とし、将軍在位40年に及ぶあいだ、「天下泰平を維持し、将軍の徳はくまなく行き渡っている。」と称え、その功績を理由に、武官の長としては大将軍に任じられ、さらに「文官の長である太政大臣に任じたい。」とした趣旨を書いている。歴史上はじめて幕府将軍職と太政大臣をともに生前に給わるという栄誉である。そして、これを見れば、誰が読んでも朝廷が幕府に申し入れ、それを受け入れた結果としか思えない。しかし、事実ではなかったことを、藤田氏は解明した。
55人の子をもうけた大将軍?家斉
事実は、将軍家斉が天皇・上皇に「おねだり」したもので、しかもあくまでも朝廷が決めたことにして欲しいというのであった。さらに、一度は、「御辞退これあるべし、再応のうえ御請け」と、ご丁寧に一度は「断る振り」をすることまで打ち合わせしている。家斉が、「随分と遠慮がちな、謙虚の美徳を備えた人物」と見えるようにしたのである。これを藤田氏は、「茶番」とした。
重要なのは、この結果、朝廷が幕府に恩を売ったことになり、その後幕府から経済的援助や新たな朝議の再興を引きだすことに成功し実を得ていることである。
このように光格上皇から仁孝天皇の時代には、すでに幕府と対等かむしろ有利な駆け引きを行っている。「御所千度参り」の時に、恐る恐る幕府の機嫌を気にしながら交渉した時とは、大きく朝幕関係は変化している。氏はこの事で、幕末の朝幕関係に至る画期としている。
☆ 上皇の禁裏行幸回数から検討
因みに、各上皇の禁裏行幸の回数を調べて見た。「東大史料編纂所蔵の近世編年データベース 」から、江戸時代に上皇となった4名の後水尾上皇、霊元上皇、後桜町上皇、光格上皇、をキーワード検索した。
- 禁裏御幸あらせられる。と、明確に御所に行った回数をA
- その様に推察できる記載 の 回数をB
として目検で追って集計した。従って正確性については自信はないが、上皇の譲位後の若い天皇への思い入れを推し量って見た。
光格 |
1年目 文化15 |
2年目 文政2 |
3年目 文政3 |
A |
26 |
21 |
20 |
B |
13 |
13 |
18 |
計 |
39 |
34 |
38 |
光格上皇が仁孝天皇への行幸回数
後桜町 |
1年目 天明2 |
2年目 天明3 |
3年目 天明4 |
A |
16 |
11 |
11 |
B |
3 |
1 |
1 |
計 |
19 |
12 |
12 |
後桜町上皇の光格天皇への行幸回数
その結果は明らかで、後桜町上皇の後桃園・光格天皇への回数と、光格上皇の仁孝天皇への回数は突出している。後水尾上皇と霊元上皇については、自身の健康状態が必ずしも良くなく、後水尾上皇はその事(腫物)が譲位の理由となっているので、単純に論じるレベルのものではないが、一般庶民が、我が子の家に訪問するのとは違って、儀礼に沿った行列で動く身分と考えれば、印象的としてもお二人の回数は、健康が良好であるだけではなく「皇室(皇統)の継続」「皇室権威の向上」への思い入れが感じられる。
孝明天皇の行幸の様子
このように見ると、災害や改革失敗による幕府の権威失墜(いわば敵失)や、尊王思想の高まりという時代の変遷が背景にはあったが、やはり天皇・上皇ご自身の強い御意思、ご努力を見逃してはならないと痛感した。血統だけではなくそのような君主意識も合わせて光格天皇を起点に今日に継がれたのだと考える。(筆者感想)
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