逆順でたどる平安京の天皇たち
112代 霊元天皇
父 |
後水尾天皇 |
l 在位中元号 |
l 寛文・延宝・天和・貞享 |
l 生年・崩御 |
l 1654年7日9日~1732年9月24日 |
l 在位 |
l 1663年3月5日~1687年5月2日 |
l 朝廷 |
l 京都御所 |
皇后 |
鷹司房子 |
l 皇女・皇子 |
l 18人・14人 |
l 先代 |
l 後西天皇 |
l 次代 |
l 東山天皇 |
l 陵墓 |
l 月輪陵 |
さて、この時代京都は、いよいよ観光都市として確立している。応仁の乱以来、幕府が出来るまて長く戦乱の中にあった京都にやっと平和が到来した。3代将軍家光や5代綱吉の生母の桂昌院、また後水尾天皇の皇后徳川和子(東福門院)たちが、それぞれの財力と信仰心から、京都の重要寺院の復活を指揮した。
家光
家光は、東寺の五重塔・石清水八幡の本殿・地主神社(今は恋占いで有名)・二条城・延暦寺(信長の焼き討ち以来)・知恩院の御影堂・清水寺など。
桂昌院 玉
桂昌院(因みに玉の輿の由来と言われる京都の八百屋の娘お玉)は、南禅院・善峯寺・西明寺(槙野尾)・乙訓寺・智積院などを改修した。
徳川和子
東福門院和子は、実家の徳川家の援助もあり、清水寺の成就院・今熊野神社・修学院離宮などを再建した。
このように世の中が安定したお陰で歴史的建造物が、次々に再建されたお陰で建物の多くが今に至るまで残っている。
さらに平和の恩恵が庶民にも行きわたる。弥次喜多道中に代表されるように、京都・伊勢・高野山などが訪ねたい人気観光地になって行った。
京都観光案内書も多く出回る。後日詳しく書くことにするが、いずれにしても天皇においても文化的活動に専念できる環境になったと言う事だ。
因みに、元禄時代、江戸が70万人くらいに対して、京都も40万人くらいの人口になっていた。
さて、いよいよ霊元天皇からは、しばらく後水尾上皇の内親王・親王の時代が続く。
とにかくすごい天皇だ。
まず① 長寿である。78歳まで生きた。
霊元法皇御宸筆(法皇となった天皇はこの方で最後)
生存中の天皇は、父108代後水尾天皇、姉109代明正天皇、兄110代後光明天皇、兄111代後西天皇、112代後本人、子113代東山天皇、孫114代中御門天皇と、7代の天皇と時代を共有し、自らは皇子として皇太子として院として生きたのだ。
生存中の徳川将軍は、4代家綱、5代綱吉、6代家宣、7代家継、8代吉宗と、5人の将軍と関わった。
そして、皇女・皇子が半端ではない。父の後水尾に匹敵する生殖力だ。今の皇族に欲しいが、お相手がいっぱいいる時代だ。
②は、一宮(長男)を飛ばして四宮(4男)の東山天皇を後嗣にするため反対派の公家を処分し飛ばしている。一宮である長男相続が一番安定した後嗣であるが、果たしてそうしなかった。一方、側近の公家とは花見で泥酔するような豪放磊落な性格だったようだ。要は好き嫌いのはっきりした大酒のみだったのか。
③は、長く中断していた新天皇の重要行事である大嘗祭を復活した。東山天皇即位の時に実現したが、これは幕府から相当な資金援助を受けないと出来ない事で、政治力も半端ではない。毅然と幕府に対応したのだろう。
最後に、④「霊元」って名前がすごい。神代太古の昔の大ミカド孝元天皇・孝霊天皇の一字ずつ頂いている。珍しい諡号だ。
以前、紹介した柳谷観音の奥院の御本尊。中御門天皇勅刻の観音様は、祖父霊元天皇の眼病完治のお礼に奉納されたものだ。その後代々の天皇に、眼病に効果があると言われる独鈷水が献上されている。
次は、後西天皇。
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