アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

317 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 106代 正親町天皇 皇室権威回復を成し遂げる慈悲深い天皇

2018-03-19 08:16:52 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

 

106代 正親町天皇

 「正親町」の画像検索結果

おおぎまち天皇と読む。

とうとう戦国時代までさかのぼって来た。

ここから長期在位の天皇が続いている。朝廷が安定していた訳ではない。財政が窮乏し宮中行事にも差しさわりがあった為、即位の儀式すら出来ない天皇もいた。従って、早々に譲位して上皇になって院政を敷くことも出来なかった。死ぬまで天皇にとどまるしかなく結果、在位も長くなる。

即位した時はまだ、毛利元就が戦国最大の武将で、信玄・謙信が川中島で合戦し、洛中は三好長慶や松永久秀など、強者・曲者たちが群雄割拠していた。その後、桶狭間の戦いを経て足利幕府の滅亡。本能寺の変そして秀吉の天下がほぼ固まるまで天皇であった。

実に29年間の激変の「公家社会の日ノ本」を統治していた。

後奈良天皇 母 藤原栄子

l  在位中元号

l  弘治・永禄・元亀・元正・

l  生年・崩御

l  1517年6日18日~1595年1月9日

l  在位

l  1557年11月17日~1586年12月1日

l  朝廷

l  京都御所 土御門東洞院

皇后

なし

l  皇子・皇女

l  皇子1名・皇女3名

l  先代

l  後奈良天皇

l  次代

l  後陽成天皇

l  陵墓

l  深草北御陵

ご自身の即位の礼も行えなかった。困窮の為である。わずかに毛利元就から献上金で即位したと記録に残っている。信長が上洛し朝廷に上納金を上納した事で、やっと天皇の権威が回復した。

しかし、これは信長による策略で、朝廷の権威を利用して天下統一を速めたのである。浅井・朝倉との和睦や、本願寺との和解・将軍義昭との和睦もすべて正親町天皇の勅許による。

天下の香木「蘭奢待」の切り出しを許可したのも正親町天皇だ。勿論強要され脅されたものと思う。聖武天皇以来の天下の香木「蘭奢待」は、正倉院所蔵の切り取りタブーのものである。「聖武以来の皇室の天罰が下る。」と嘆いたと伝わる。

 「蘭奢待」の画像検索結果3か所切り取りの短冊が見える。

蘭奢待の切り取りは、近世になって明治天皇以前は、足利義政と織田信長だけだ。

その後の、秀吉の朝鮮出兵も正親町天皇の時代だ。

 「秀吉」の画像検索結果

さて、特に功績の見つからない天皇だが、皇統にない人間(普通の人)に天皇の位を奪われる危機がこの時代あったと思う。

歴史上有名なのは、弓削の道鏡だ。平安以前の天皇なので詳しく書かないが、和気清麻呂がその危機を救った。次は、足利義満、これは後日詳しく書くが、天皇は後小松天皇の時代だが、死後「鹿苑院太上法皇」の称号が下されている。

そして、織田信長だ。彼の行状を考えると、権威に対して何の畏敬の念がない。比叡山も本願寺もなんとも思っていなかった。天皇や皇室も自分の野望の手段でしかなかった。そのような事に危機感を持った「明智光秀の謀反」ではなかったかと筆者は思う。

結局、皇統は守られた。

秀吉には、天皇に代わる意志はなかったと考える。最下層の出身の日吉丸に、その様な発想はなかったことが、また歴史の奇跡でもある。

天皇は、正確温和で、慈悲深く写経をし国民の幸福を願う事がしばしばあったと伝わる。

「正親町宸筆」の画像検索結果正親町御宸筆


多くの方に慕われた天皇だった。

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