逆順でたどる平安京の天皇たち
106代 正親町天皇
おおぎまち天皇と読む。
とうとう戦国時代までさかのぼって来た。
ここから長期在位の天皇が続いている。朝廷が安定していた訳ではない。財政が窮乏し宮中行事にも差しさわりがあった為、即位の儀式すら出来ない天皇もいた。従って、早々に譲位して上皇になって院政を敷くことも出来なかった。死ぬまで天皇にとどまるしかなく結果、在位も長くなる。
即位した時はまだ、毛利元就が戦国最大の武将で、信玄・謙信が川中島で合戦し、洛中は三好長慶や松永久秀など、強者・曲者たちが群雄割拠していた。その後、桶狭間の戦いを経て足利幕府の滅亡。本能寺の変そして秀吉の天下がほぼ固まるまで天皇であった。
実に29年間の激変の「公家社会の日ノ本」を統治していた。
父 |
後奈良天皇 母 藤原栄子 |
l 在位中元号 |
l 弘治・永禄・元亀・元正・ |
l 生年・崩御 |
l 1517年6日18日~1595年1月9日 |
l 在位 |
l 1557年11月17日~1586年12月1日 |
l 朝廷 |
l 京都御所 土御門東洞院 |
皇后 |
なし |
l 皇子・皇女 |
l 皇子1名・皇女3名 |
l 先代 |
l 後奈良天皇 |
l 次代 |
l 後陽成天皇 |
l 陵墓 |
l 深草北御陵 |
ご自身の即位の礼も行えなかった。困窮の為である。わずかに毛利元就から献上金で即位したと記録に残っている。信長が上洛し朝廷に上納金を上納した事で、やっと天皇の権威が回復した。
しかし、これは信長による策略で、朝廷の権威を利用して天下統一を速めたのである。浅井・朝倉との和睦や、本願寺との和解・将軍義昭との和睦もすべて正親町天皇の勅許による。
天下の香木「蘭奢待」の切り出しを許可したのも正親町天皇だ。勿論強要され脅されたものと思う。聖武天皇以来の天下の香木「蘭奢待」は、正倉院所蔵の切り取りタブーのものである。「聖武以来の皇室の天罰が下る。」と嘆いたと伝わる。
3か所切り取りの短冊が見える。
蘭奢待の切り取りは、近世になって明治天皇以前は、足利義政と織田信長だけだ。
その後の、秀吉の朝鮮出兵も正親町天皇の時代だ。
さて、特に功績の見つからない天皇だが、皇統にない人間(普通の人)に天皇の位を奪われる危機がこの時代あったと思う。
歴史上有名なのは、弓削の道鏡だ。平安以前の天皇なので詳しく書かないが、和気清麻呂がその危機を救った。次は、足利義満、これは後日詳しく書くが、天皇は後小松天皇の時代だが、死後「鹿苑院太上法皇」の称号が下されている。
そして、織田信長だ。彼の行状を考えると、権威に対して何の畏敬の念がない。比叡山も本願寺もなんとも思っていなかった。天皇や皇室も自分の野望の手段でしかなかった。そのような事に危機感を持った「明智光秀の謀反」ではなかったかと筆者は思う。
結局、皇統は守られた。
秀吉には、天皇に代わる意志はなかったと考える。最下層の出身の日吉丸に、その様な発想はなかったことが、また歴史の奇跡でもある。
天皇は、正確温和で、慈悲深く写経をし国民の幸福を願う事がしばしばあったと伝わる。
正親町御宸筆
多くの方に慕われた天皇だった。
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