逆順でたどる平安京の天皇たち
110代 後光明天皇 一人の女性のみ愛した天皇
父 |
後水尾天皇 |
l 在位中元号 |
l 寛永・正保・慶安・承応 |
l 生年・崩御 |
l 1633年4日20日~1754年10月30日 |
l 在位 |
l 1643年11月14日~1654年10月30日 |
l 朝廷 |
l 京都御所 土御門東洞院 |
女御 |
源秀子 |
l 皇女 |
l 1人 |
l 先代 |
l 明正天皇 |
l 次代 |
l 後西天皇 |
l 陵墓 |
l 月輪陵 |
父後水尾天皇の突然の譲位により後を継いだ姉明正天皇の、その後を継いだ男兄弟3名のお一人で、第4皇子。前回の後西天皇は第8皇子。霊元に至っては第18皇子である。子を多く作ることは素晴らしい。
さて、ほぼ長男の後光明天皇は、後世評価が分かれるところである。
即位時、父後水尾上皇から、「武家専権の世であるから、この時世にあっては心を慎むことが肝要である。」と戒めている。
あなたが言うか?と、言いたい・・・・。
武芸を好み、酒乱の気があったと言う。どうも天皇家は代々お酒が強いようだ。武芸については、幕府を刺激するとして、京都所司代から注意を受けた。やめなければ切腹すると脅された折り、何と天皇は、「武士の切腹を見たことが無いので見て見たい。」と言い放ったと伝えられる。京都所司代板倉重宗(勝重の子)は閉口したとなっているので、切腹はしなかったようだが。
また、源氏物語を淫乱の書と断じている。これは大いに賛同する。
また仏教嫌いで当時火葬される天皇も多い中で、土葬により葬られた。
昭和天皇もお酒を愛された。(適度に?)
酒についてもう一つ逸話。依然として大酒をやめない天皇に、側近徳大寺公信が諫めたところ、天皇は短剣を抜いて切ろうとした。対して、公信は、
「諫言さえお容れになるのなら、身命は惜しみません」と、その場に平伏した。
翌日、自らを恥じた天皇は、「昨夜の有様こそ返す返す恥ずかしく思う」と、その短剣を差し渡した。徳大寺公信はその場に嗚咽をもらすのみであったと言う。このように、後日伝わる逸話から見ても評価が分かれるところである。
因みに、庭田秀子(源秀子)、源典侍(みなもとのないしのすけ)という高位ではない女性のみを愛した。御子もおひとり内親王のみで、血統を繋ぐことは出来なかった。
仏教嫌いの天皇でも、源典侍の安産祈願をここ大蓮寺に命じた。
皇子であれば皇位継承の望みもあったはずだ。
ただ、
疱瘡によりにわかに崩御した。23歳の若さゆえ幕府による毒殺説が疑われている。
次は、姉明正天皇。
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