アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

311 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 ⑪ 一人の女性のみ愛した 

2018-03-12 07:27:14 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

 

110代 後光明天皇  一人の女性のみ愛した天皇

 

後水尾天皇

l  在位中元号

l  寛永・正保・慶安・承応

l  生年・崩御

l  1633年4日20日~1754年10月30日

l  在位

l  1643年11月14日~1654年10月30日

l  朝廷

l  京都御所 土御門東洞院

女御

源秀子

l  皇女

l  1人

l  先代

l  明正天皇

l  次代

l  後西天皇

l  陵墓

l  月輪陵

 

父後水尾天皇の突然の譲位により後を継いだ姉明正天皇の、その後を継いだ男兄弟3名のお一人で、第4皇子。前回の後西天皇は第8皇子。霊元に至っては第18皇子である。子を多く作ることは素晴らしい。

さて、ほぼ長男の後光明天皇は、後世評価が分かれるところである。

即位時、父後水尾上皇から、「武家専権の世であるから、この時世にあっては心を慎むことが肝要である。」と戒めている。

あなたが言うか?と、言いたい・・・・。


武芸を好み、酒乱の気があったと言う。どうも天皇家は代々お酒が強いようだ。武芸については、幕府を刺激するとして、京都所司代から注意を受けた。やめなければ切腹すると脅された折り、何と天皇は、「武士の切腹を見たことが無いので見て見たい。」と言い放ったと伝えられる。京都所司代板倉重宗(勝重の子)は閉口したとなっているので、切腹はしなかったようだが。

また、源氏物語を淫乱の書と断じている。これは大いに賛同する。

また仏教嫌いで当時火葬される天皇も多い中で、土葬により葬られた。

「大酒の天皇」の画像検索結果昭和天皇もお酒を愛された。(適度に?)

酒についてもう一つ逸話。依然として大酒をやめない天皇に、側近徳大寺公信が諫めたところ、天皇は短剣を抜いて切ろうとした。対して、公信は、

「諫言さえお容れになるのなら、身命は惜しみません」と、その場に平伏した。

翌日、自らを恥じた天皇は、「昨夜の有様こそ返す返す恥ずかしく思う」と、その短剣を差し渡した。徳大寺公信はその場に嗚咽をもらすのみであったと言う。このように、後日伝わる逸話から見ても評価が分かれるところである。

因みに、庭田秀子(源秀子)、源典侍(みなもとのないしのすけ)という高位ではない女性のみを愛した。御子もおひとり内親王のみで、血統を繋ぐことは出来なかった。

「庭田秀子」の画像検索結果

仏教嫌いの天皇でも、源典侍の安産祈願をここ大蓮寺に命じた。

皇子であれば皇位継承の望みもあったはずだ。

ただ、

疱瘡によりにわかに崩御した。23歳の若さゆえ幕府による毒殺説が疑われている。

次は、姉明正天皇。

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