アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

865 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑧

2021-08-12 18:05:26 | 日記

その3 古代の人間性「その前に、古代の性の営みについての表現」

 これから天皇家の皇位継承を通じて皇室の先進性を見て行くのだが、古代での性についての表現について書きたい。

 

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そもそも男女神であるイザナギ・イザナミ尊の夫婦の営み(セックス)で日本の国が誕生した。最初、女性神であるイザナミ尊から誘ったために水子が産まれたので、今度はイザナギ尊が誘ったら多くの神たちが産まれたとされている。つまりセックスは男から誘うのが正しいと教えている。漢字で表記すると、伊弉諾・伊弉冉は「誘い誘われ」とも読める。なお、イザナミ尊の死の原因が火の神である我が子の誕生により「ホト(女性器)」にやけどを負ったことになっている。神話には女性器を神秘的なものとし、しばしば登場する。女性器のような割れ目のある岩や木の幹を神が宿るものとして信仰の対象になることも多い。

また、天皇(大王)の資質として生殖能力の高さを称える話は多い。雄略天皇などは、一夜だけまぐわった(性交した)女性の子が我が子とは認めない時、部下が「その時は一晩に何度行ったのですか。」と問えば「7度」と答えている。部下は「7度も営みを重ねれば子が生じもするでしょう。」と、大王の精力の強さを強調している。また、上古の天皇などは100歳以上の長寿を称えているが、有力豪族に皇子・皇女を与えて血縁ネットワークを構築するために子の多さも褒め称えている。

さらに、万葉集に多くみられる「恋歌」には、「寝る」などと、セックスを連想する淫靡な表現が多く出てくる。女を見かければ誘う(いざなう)のは当たり前の事であったようだ。ナンパは決して卑しいことではないのだ。

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864 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑦

2021-08-11 09:39:21 | 日記

その2 皇室権力を確たるものにする為、殺戮が繰り返された。

「その為後継者もいなくなり、事実上の女性天皇が継いだ。古代も女性が国を助けたのだ。」

雄略天皇 - Wikipedia殺戮王 雄略天皇(ワカタケル王)

 現在の定説では、雄略天皇(河内王朝)は、「倭の五王」の讃・珍・済・興・武の内、最後の倭王武とされている。昭和53年に話題となった埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣が検証の結果、西暦471年のものと判明し「ワカタケル大王」の実在が判明し、関東地域まで朝廷(大王)の支配が及んでいたことも分かった。画期的大発見は当時、一大古代史ブームを呼んだ。記紀では「悪行の主なり」と、暴君の極みであるように書かれていて、戦国時代の信長を彷彿とさせる天皇なのだが、前時代を否定し新時代の幕開けを演出したある種の英雄でもある。(そのあたり日経連載小説「ワカタケル」池澤夏樹氏著に詳しい)自らの支配権を確立するためには手段を選ばず、あえて殺戮も辞さなかった。しかし皮肉にも、その後わずか20~30年で河内王朝は滅んで、数代を経て継体天皇の出現を見るのである。信長の破壊活動が、結果的に短期間に、秀吉を経て家康の天下泰平を演出したことに似ているような気がする。

 それでは雄略天皇の悪行とは何か。まず、兄の安康天皇を殺害した敵(かたき)の目弱王を討つとして殺しそれを匿った豪族も一網打尽に殺害し、その協力を渋った兄たち2人をも殺す。その後反対しそうな一族たちをだまし討ちで皆殺しにした。信長も驚くほどの残忍さで自らの王権を確立した。当時の権力争いはイコール殺戮の時代だった。やったらやり返される命を懸けた政争の時代だった。その結果、王権の強さや支配圏の拡大を見たが、あまりにも殺しすぎて、結果的に後継にすべき親族内の人材も居なくなったのだ。これも信長、秀吉同様、時代を切り開いた人間にありがちな猜疑心の強さからか、部下を含む実力者を悉く滅ぼしてしまったのだ。雄略天皇には後の清寧天皇という子がいたが、夭折しそのほかに適当な後継者はいなかった。

実は日本初の女性天皇?飯豊女王 : ニワカ歴史オタが語る雑記日本最初の女性天皇か? 飯豊天皇陵(葛城市)

注目すべきは、「飯豊皇女」と言う方が、天皇の代わりを務めていたらしい事だ。しかし女帝とは言わず「称制」とした。大事なのは、この時代すでに天皇は男子であること、血統の繋がらない豪族が天皇になることはないという考え方が出来ていた事だ。この飯豊皇女、日本書紀には、「夫とは一度だけ性交しその後は2度と男と交わろうとしなかった。」と書いてある。すでに結婚していて処女とは言えないがその神秘性を強調したのだろう。何か卑弥呼のような存在感を感じる。確か、卑弥呼の後継者は壱与(イヨ)・台与(トヨ)で、飯豊(イイトヨ)と音が似ている。関係性はあるのだろうか。まだ、妖術的能力で政治を治める時代だったのだ。しかし、その後顕宗天皇・仁賢天皇と実在すら疑われる天皇で繋ぎ、暴君「武烈天皇」で、まったく後継者のいない時を迎える。皇室歴史上最初で最大の危機である。

 

 

※「倭の五王」

倭の五王(わのごおう)は、中国の『宋書』に登場する倭国の五代の王、讃・珍・済・興・武をいう。『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)における歴代天皇の誰に該当するかについては諸説ある

※「飯豊皇女」

第22代清寧天皇亡きあと、忍海高木角刺宮において政務を執り行ったことが「古事記」、「日本書紀」に記録されています。歴代天皇の系譜には記載がありません。しかし、記紀の記述内容を読み込めば、飯豊は短期間とはいえ大王(天皇)の地位にあったと考えることはごく自然なことだと思われます。平安時代の書物である「扶桑略記」には第23代天皇として「飯豊天皇」の名があげられています。以上葛城市HPから

※顕宗天皇・仁賢天皇

履中天皇の孫で兄弟。父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、兄弟共に逃亡して身を隠した。播磨国明石で牛馬の飼育に携わっていたが、雄略の子、清寧天皇崩御後、探し出して二人を宮中に迎え入れた。その間は飯豊皇女が執政し、譲り合った結果、まず弟王が即位(顕宗天皇)し、そのあと兄の仁賢天皇が即位した。

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863 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑥

2021-08-10 10:36:45 | 日記

雄略天皇~継体天皇

 

その1  大古の昔は、130年以上生きた天皇が何人もいた。?

「昭和天皇は最長寿ではなかった。神の話から人間の話へ」

ジンムテンノウ

天皇の初代は、神武天皇だが、このあたりは神話の世界と重なりかなり歴史的真実とは考えにくい。特に、2代綏靖から9代開化までは、「欠史八代」と言われていて実在は疑わしい。何しろ皆さん御長寿でいらっしゃる。この間、長寿番付け1位は、孝安天皇137歳、2位孝霊天皇128歳、3位初代神武天皇127歳、以下孝元天皇116歳、孝昭天皇114歳、開花天皇111歳、綏靖天皇84歳、懿徳天皇77歳、安寧天皇67歳。なんと昭和天皇の89歳が史上最高年齢と思っていたのに、である。古代では、現在のようなストレスはなく天変地異もなく、また環境問題もまだなく有害物質に侵されることも無かった為か?勿論、当時の平均寿命など鑑みおよそ現実的ではない。まさに神の仕業としか考えられない。

しかし、実在しなかったという証明は難しく、今の半期を1年とする半歴説もある。それぞれ年齢を半分にすると現実味が出てくる。神武天皇は63歳か64歳、最も長生きの孝安天皇で68歳か69歳、(日本の暦にはお彼岸など年2回の行事が多いのはその名残か、また春夏秋冬の四季をそれぞれ1年とする4倍歴説もある。)いずれの国でも「国の大本」は神秘に包まれているもので、実在かどうかの議論そのものが興味深い。

実は、現在の学説では、10代の崇神天皇が天皇家の始まりと言われている。神武天皇の実名が、「ハツクニシラススメラミコト」と、崇神天皇と同じなのだ。スメラミコトは「皇尊」なので天皇の意味だが、ハツクニシラスは「始馭天下」とか「御肇国」と書きいずれも初めて国を治めるという意味なのだ。『日本書紀』や『古事記』を書く時代になって、神話の世界の神武天皇を祖とし、その次に8人の天皇の存在を創作し、始めて国を治めた大王(崇神天皇)の正当性を強調したのだろう。戦国時代など下剋上の時代に、自らの家柄を尊いものに見せる為、遠い昔から続いていたかのように家系図を創作したのと同じようなものなのかも知れない。しかし、女神であるアマテラスの時代からとは言え、同一王朝の男系を繋いでいるとされる国は世界でも日本だけだ。もし新しい王朝が武力で討伐したのならば、その都度、何度もそのような複雑で非現実的な歴史を残すことも考えられるはずだ。

ただ現実にはその後、なお地方豪族たちの覇権争いがあったものと思われる。崇神王朝はその後本拠地を転々とする。まず奈良の三輪神社あたりを拠点にした「古王朝」と言われる時代、次に仁徳天皇陵で有名な泉州・河内の「河内王朝」へと変えて行く。皇室内での系統の違う王朝への交代なのかどうかは学説が分かれる。

いよいよ本題の継体天皇を語るのだが、その前に、大王家の統治を確立した一人の強烈な個性の天皇を書かねばならない。考古学的に実在が確定している最古の天皇、大悪天皇とも有徳天皇とも言われるワカタケルこと雄略天皇である。

 

「欠史八代」『古事記』・『日本書紀』においては存在するがその事績が記されない第2代から第9代までの8人の天皇。現代の歴史学ではこれらの天皇は実在せず後世になって創作された存在と考える。

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862 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑤

2021-08-09 08:29:26 | 日記
  • 皇室復古の闘い

 

時代が徳川の時代になると、家康の定めた「禁中並び公家諸法度」により厳しく皇室の権力を制限されつつも、108代後水尾天皇は皇后(徳川和子)の徳川家の財力と、自らの長寿(85歳)を武器に皇室の復興に取り組む。しばらく後水尾上皇の時代が続き、晩年の子の112代霊元天皇(79歳)も長寿を全うし数々の復興の試みを行った。しかし、その後は早世の天皇が続き、遂に118代後桃園天皇の時代に皇統の断絶の危機を迎える。ただ、113代東山天皇の時代に新井白石の提言により新たに親王宮家(閑院宮家)を創設し危機に備えたり、途中、女性天皇を挟むことで天皇位の空白をうめるなど様々な英知を集結している。女性天皇とは117代後桜町天皇のことで、116代桃園天皇の早い崩御により甥の118代後桃園天皇の成長まで皇位をつないだ。つなぐだけではなく帝王学を訓育するなど、知性も人徳も備えた人物であったようで、内親王の場合早くからしかるべき公家に嫁ぐところ二十歳を過ぎても独身のまま宮中に残していた。恐らく、皇位の危機に備えていたものと考えられる。このようにその時代の英知を駆使してあらゆる観点から手を打っていたのである。現代の有識者に望まれるのはまさにこの時の教訓であろう。

結果、119代光格天皇は傍系とは言え東山天皇の3世孫から即位した。現代に続く血統である。この光格天皇はあらゆる点で現代の皇室のあり様を作った偉大な天皇と言える。

 

  • 現代に繋がる安定的皇位継承の問題点

皇室の課題|平成から令和へ 新時代の幕開け|NHK NEWS WEB

 2021年7月現在、今上陛下よりお若い天皇皇位継承権を持つ方は、皇太弟(皇嗣殿下)である秋篠宮殿下とそのお子様の悠仁親王殿下のお二人である。これで次世代まで皇位継承は安泰だという方もいる。しかし、お二人しかいらっしゃらない、このことが最大唯一の問題だ。言うのも憚れるが、万が一の場合は皇統断絶の危機が現実問題となっている。

 そこで女性天皇や女系天皇の議論がある。しかし、女性天皇と女系天皇の違いなど十分に理解されていない事や、歴史上女性天皇がどのような経緯で即位されたかなどの検証も不十分と言わざるを得ない。父親を遡れば必ず天皇に繋がるという我が国固有の男系男子による皇位継承は、女性天皇でも必ず父親(祖父)は天皇であった。両親とも天皇であれば良いが、そのお子は天皇になっていない。母が天皇であった子は女系天皇と言うが、歴史上その例はない。(男系・女系いずれにも該当する天皇はいる)つまり、今上陛下の内親王殿下の愛子さまは、男系の女性なので、そのような女性天皇の例はある。しかしそのお子は、愛子さまのお相手が男系(天皇に直結する血筋)でない限り女系天皇となり前例はない。

 従って、現在の皇室典範を改正するにあたり前例のない女系などの皇位継承は大きな議論となる。まず、愛子様を皇位継承者にする場合、その継承順位を男子優先の後にして悠仁親王殿下の次にするか、今上陛下との血縁を優先して秋篠宮殿下や悠仁さまに優先するかという議論などは難しい。それは廃太子(現在の皇位継承者を一旦廃止する)という手続きが発生するからだ。また、眞子さまや佳子さまの継承順位をどうするかという議論も発生する。さらに、女系天皇も想定すると、愛子さま、眞子さま、佳子さまのお子に皇位継承順位をつけるかどうかという議論になりかねない。小室圭氏のお子様が天皇になる可能性すら出てくるのである。男女平等やダイバシティーの考え方では、皇室問題は議論できないと考える人が多いのはこのような事情による。

 これは何より皇位継承者の減少が原因である。太平洋戦争終結時、GHQの指示により多くの宮家・皇族を臣籍から降下させたことによる。実は、明治天皇も大正天皇もそして昭和天皇も女官からのお子であった。つまり皇后さまのお子ではないのである。女官制度では江戸幕府時代の大奥と同じ、将軍や天皇の血筋を守る為多くの女性を用意していた。この制度が現代のモラルに照らし合わせたら問題外だとは思うが、現実的には、一人のお相手だけでは皇位は守られていないのだ。今上陛下にお妾さんをと、言っているのではない。現実を述べているだけだ。そこで、戦後臣籍降下された旧皇族にお戻りいただく案も浮上している。しかし、戦後70年もたち世代交代した旧皇族の皆様には、すでに完全に民間人としての人生を歩んでおられる。当然、職業上の人脈や個人財産、人的つながりなど社会基盤を築いておられる中で、私的自由を大きく制限される皇室にお戻りいただくことは現憲法上適切なのかという議論はある。まして天皇や天皇の父ともなれば、国民の象徴として生きて行くことが求められることになる。生まれながらにして君主教育を受けておられる皇室内に生きている方々と違って、このような人生の激変を受け入れるものかとも思う。一部には、ご理解を頂けた方に限り、お一人かお二人を天皇家の御養子としてお入り頂く案も出ている。そのような崇高な志をお持ちの旧皇族の青年男子の登場を心よりお待ちする。勿論、皇室典範の改正と何より国民の理解を得る必要がある。

新井白石 - Wikipedia新井白石 先手を打って「閑院宮」を創設した。

 そのような状況の中でも、学校教育現場や報道関係の情報にもしっかり歴史を踏まえた詳しく正しい発信がない事は多いに問題だと思う。江戸時代中期の新井白石のような近未来を見据えた施策を打てる為政者がいないのだろうか。政治家、学者の英知を集めての提言を待ちたい。同時に国民側にも、この機会にイデオロギーを超えて皇室の歴史、日本の歴史を学ぶ必要がある。

 

以上のような事から、8つのケースを詳しく見ることで先人の皇位継承への思いを見て行く。分かりやすいように表にして選んだ理由を書いておく。

 

21代雄略天皇から

26代継体天皇へ

皇統の最初の危機。別系統を立てたか、王朝の交代か

49代光仁天皇から

50代桓武天皇へ

天武系から天智系へ皇統の変更。皇族の争いの歴史を清算する。

57代陽成天皇から

58代光孝天皇へ

傍流が本流へ、藤原摂関家との確執を越えて皇室の権威を守る。

71代後三条天皇から

72代白河天皇へ

天皇親政へ院政を確立

82代後鳥羽天皇から

88代後嵯峨天皇へ

武家社会との競合から共存

96代後醍醐天皇

 

天皇親政と南北朝騒乱へ

108代後水尾天皇

 

武家社会全盛期の天皇、復古主義への道

119代光格天皇

 

傍系からの即位、血統の危機を救う。先人の知恵の集約。

 

 

 

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861 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ④

2021-08-06 07:47:08 | 日記
  • 皇位継承の決定権が武家に委ねられた結果の両統迭立

後醍醐天皇とは?政治や吉野、隠岐の島への島流しや家系図について解説!

 次に、鎌倉時代後期の両統迭立から南北朝戦乱の時代も注目だ。ここまで見て来たように親子相続をしているうちは良いが、兄弟相続を行えば必ずその後は「兄の子」か「弟の子」かで必ず争いは起こる。しかし、88代後嵯峨天皇の場合は後継者を自ら決められない事情があった。82代後鳥羽上皇の承久の乱の記憶がまだ残る頃だった為、幕府が主導して幕府に反乱の意思が薄かった皇子の血統から後嵯峨を選んだ。その為、自らの二人の子のどちらの血統に継いでいくかが決められなかったので、幕府に委ねたところ2系統交互の皇位継承と定めた。大覚寺統、持明院統の両統迭立の始まりだ。しかも幕府自体も元寇を挟んで北条得宗家の権力基盤の弱体化が進み、朝廷(公家)・幕府(武家)両方の内部抗争が激化して行く。ある公家の日記に、「帝位の事、なほ東夷(あずまえびす)の計(はかり)なり。末代の事、悲しむべし。」と嘆いていて、結果、2系統は幕府が鎌倉から室町に移る時には、それぞれが正統の朝廷と主張しあった。南北朝時代と言う「末代」の様相を呈する。

 

  • 皇室権威の衰退

坂東玉三郎、『麒麟がくる』正親町天皇役「挑戦だと感じています ...正親町天皇(坂東玉三郎)

 後醍醐天皇は希代の傑物で、空前絶後の天皇だ。その建武新政は、前進的だったのか単なる復古政治だったのかは評価が分かれるが、いずれにしても「天皇の時代」と言う意味では別格の時代である。そして南北朝統一後は、皇室の権威は財政難とともに著しく低下した。もはや皇位は争うものではなくなった。遂に、戦国時代には、即位式どころか後土御門天皇が崩御しても子の後柏原天皇などは、朝廷の資金がなく大喪の礼すら出来ない時代を迎える。昨年の大河ドラマでも御所の筑地塀が破壊されて路地から直接御所に出入り出来るシーンがあったが、誇張ではない。当然、応仁の乱から戦国時代の103代後土御門天皇から107代後陽成天皇まで5名の天皇は、譲位し院政を行うことも出来ず、結果皇室の権威を示すすべはなかった。結果、在位平均30年を超えることになる。この間、天皇は歴史の表舞台には出て来ない。それどころか宮中行事の多くがこの時代に一旦断絶している。かろうじて、正親町天皇が織田信長に、後陽成天皇は秀吉に支援を受けているが、下剋上による天下統一には天皇の権威も無くてはならないものであった為である。

 

  • 皇室復古の闘い

20160724170326.jpg現皇室の祖 光格天皇

時代が徳川の時代になると、家康の定めた「禁中並び公家諸法度」により厳しく皇室の権力を制限されつつも、108代後水尾天皇は皇后(徳川和子)の徳川家の財力と、自らの長寿(85歳)を武器に皇室の復興に取り組む。しばらく後水尾上皇の時代が続き、晩年の子の112代霊元天皇(79歳)も長寿を全うし数々の復興の試みを行った。しかし、その後は早世の天皇が続き、遂に118代後桃園天皇の時代に皇統の断絶の危機を迎える。ただ、113代東山天皇の時代に新井白石の提言により新たに親王宮家(閑院宮家)を創設し危機に備えたり、途中、女性天皇を挟むことで天皇位の空白をうめるなど様々な英知を集結している。女性天皇とは117代後桜町天皇のことで、116代桃園天皇の早い崩御により甥の118代後桃園天皇の成長まで皇位をつないだ。つなぐだけではなく帝王学を訓育するなど、知性も人徳も備えた人物であったようで、内親王の場合早くからしかるべき公家に嫁ぐところ二十歳を過ぎても独身のまま宮中に残していた。恐らく、皇位の危機に備えていたものと考えられる。このようにその時代の英知を駆使してあらゆる観点から手を打っていたのである。現代の有識者に望まれるのはまさにこの時の教訓であろう。

結果、119代光格天皇は傍系とは言え東山天皇の3世孫から即位した。現代に続く血統である。この光格天皇はあらゆる点で現代の皇室のあり様を作った偉大な天皇と言える。

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