同性婚に対しての不適切な発言で総理大臣秘書官・新井勝喜が更迭されました。
3日夜、オフレコを前提とした記者団の取材に「見るのも嫌だ」と同性婚に対しての意見を言った。その後、不適切だったと撤回し、謝罪したが、それで責任と発言が消えるわけではない。
この秘書官の言葉があまりにも直球だった事もあり、SNS上だけでなく問題が大きくなりました。
それにしても、、、総理秘書官と言う立場をどう思っていたのだろうか。
「オフレコ前提」とは言え、記者団相手に「内緒にしてね」は無いでしょ。
これが個人的に取材を受けて、相手が一人の場合だとオフレコにしてくれる可能性は有るかも知れないが、多くの記者を相手にオフレコは無い。脇が甘いと言うか、自分の立場を分かっていないと言うか・・・
私はその点に、話の内容以上に驚きました
同性愛者などの運動がマスコミなどで放送されるたびに思うのですが、彼等・彼女等は何処まで求めているのだろうと。
これは同性愛者などを差別してはいけないと言う人たちにも、同じことが言えます。
家の中の夫婦の会話で、同性愛など考えられないと、男と女の夫婦が話し合う事もダメなのでしょうか。
夫婦の話だから表に出ないので批判されないだけで、それは間違った考え方で良くない話だとなるのでしょうか。
それとも、、それは他人に迷惑をかけたり不快な思いをさせないので自由にどうぞと言うのでしようか。
それならば問題もあり、同性愛など考えられない人達は社会に出たら二重人格者を演じなければならない不自由がある。
解りやすく言えば、、、
陰でコソコソ話をするのは良いが、人前では話してはいけない。
陰でも、人前でも、そんな不平等な思考はダメ。
この2つのどちらなんでしようか?
同性愛者と言うのは太古の昔から存在していたようですが、それはあくまでも秘め事で、今で言う市民権は有りませんでした。それが差別につながり「人権に触れる」と。
同性愛を人権問題として取り上げている人たちは「一夫多妻」をどう考えるのでしょうか。
これもその人たちが良いなら社会も認めるべきだと考えているのでしようか。
人前でこの同性愛などの問題を提起すると、一般的には同意する人が多い。
この同意する人達は何処まで認めるべきだと自分の考えを持っているのでしようか?、、、どうも怪しい。
自分に小学生の子供がいてて、学校の帰りに隣のオジサンにお菓子を貰って庭先で食べたと聞けば・・・
私は隣りの人に感謝しお礼を言います。子供が変質者からの被害にあうのも防げるし、ありがたい事です。
ところが、その隣人が同性愛者のオジサンと解ったら話は別になります。
性的に未熟な子供に同性愛者の男と二人にはしたくない。
こんな親の思いもダメな事なのでしょうか?