8月15日の終戦の日が近づくと父親の事を思い出します。
4人兄弟姉妹の末っ子の私は両親にとり、その時代では高齢出産だったかもしれません。
小さな時に親父が兄弟と集まって酒を飲むと、よく戦争の話を聞きました。
勇猛果敢に戦った事や、命が危険な状態を笑い話の様に話していたのを覚えています。
しかし、晩年になり戦争の話を尋ねる様に聞くと、その話の内容は違っていました。
現在の中国北部に満州国を作った日本。支配する地域は朝鮮半島から北側一帯で、ロシアと接していました。
ある程度の安定は有ったみたいですが、強引に占拠している訳ですから、何時・何処で中国軍に攻撃されるか解らない。
南は中国軍、北はロシア軍の両方に注意が必要です。
(呼称はすべて現代の言葉です)
満州事変・支那事変と接近戦を何度も経験した父親ですから、人が死ぬことにはマヒしていて、捕虜に対する虐殺なども有ったようです。
昭和の終わりごろには中国で犯した「戦争犯罪」を口にする元・兵士も現れ、涙ながらに話している姿をテレビなどで見かけました。
その姿を見て、親父がつぶやいた
「墓場まで持って行ってる仲間の事を思えば口には出来ない」と
そもそも戦争犯罪の定義などは、勝者が決めたり、戦場に出ない政治家が決めたりしたこと。
一概に捕虜を殺すことを「戦争犯罪」と決めつけるのは問題が有ります。
戦場には大量の捕虜を拘束する施設も不十分です。少し油断すれば逆に殺されてしまいますし、囲いなどに爆弾が落ちれば捕虜たちは一気に反撃と逃走が始まります。
捕虜を現地で管理できる施設と人員と資金が不足している日本軍には千・万人の捕虜を管理は出来ないでしょう。
後ろ手・足かせの人が死んでいます。
これをどう理解しますか?
余りにも残忍で掲載できない写真も有ります。
決して自分の父親たちを批判しているのではなく、こういう事が起こってしまうのが戦争だと言いたいのです。
親父は昭和11年から16年ぐらいまでは満州(親父は北支と言っていた)を中心として従軍していました。
(その後はフィリピン・南方の島と続きます)
その途中で兵役の期限が有ったのですが、親父は自ら延長を申し出ています。
そもそも徴兵で兵隊さんになったのではなく、自ら志願して兵隊になっていました。
小学校しか出ていない親父は家から10kmも離れた徳島市内で働いていて、仕事の内容は自転車に取り付けられたリヤカーに大量の荷物を載せて、指定された場所に届ける仕事だったのですが、その場所が遠いし山だったりで10代前半の少年にとっては厳しすぎる仕事だった。仕事が終わるのは何時も夜、職場の自転車を借りて10km先の自宅まで帰り、少し寝たら早朝に出発する毎日でした。よくパンクしたそうですが、それはもの凄く理解できました。私の子供の時でも道の状態は悪く、自転車のタイヤがパンクするのは日常的でした。
親父はこんな辛い仕事の毎日なら兵隊になって戦場に行った方がましだと思ったそうです。
親父の兄に徴兵があったのですが、病弱だった兄は不合格となり(その後死亡)、それじゃあ俺が行くと志願したらしい。
志願すればいわゆる赤紙が来る前にでも入隊できのです。
一番下の二等兵から最終は少尉まで、その殆どが戦地での生活でした。
(二等兵・一等兵・上等兵・伍長・軍曹・曹長・准尉・少尉)
ちなみに衛生部の軍医だと一番下は少尉です。 小学校卒と大学卒の学歴は軍隊でも大きく影響します。
何年も戦地で生死をさまよい、生きていたのでやっと准尉になれるのに、大卒だと鉄砲を撃った事のない年下の青年が上官になるんです。
この写真を見て下さい
昭和16年12月7日まで北支に居た事になっています。
本当はその半年ほど前に一度日本に帰り、大阪で母親と会っている(結婚後2年目)
そして再編された隊に入り、目的地を知らされずに九州から軍の船で出発した。
その途中、台湾沖に停泊して、船から台湾に上陸する訓練を受け、暫くして何処かに出港したのです。
目的地は教えてもらえないが、その船の中で真珠湾攻撃を知り、ついにアメリカと戦争になったと知った。
その直後にアメリカが占拠していたフィリピンに上陸し戦いが始まった。
その日が写真の16年12月8日となり、場所は「マニラ」と書かれています。
ですから本当は半年ほど前にはフィリピンを占拠しているアメリカ軍に戦いを挑む計画で準備をしていたのです。
日本にとっての第二次世界大戦の始まりは、真珠湾攻撃の有った昭和16年12月8日より半年ほど前と言う事になります。
ここまでが第二次世界大戦までの親父の戦争体験で、ここからも続きます。
【母親】
親父が兵隊に行き、訓練を終えて中国に出兵し、現地で殺し合いをしている頃。
母親は徳島で小学校の先生をしていました。
当時では数少ない高等女学校を卒業していて、親父との学歴の差は天地の開きがあります。
今だと中卒と難関大学卒位の開きは有りますね。
こういう証書が何枚も残されています。
毎年、このような証書が発行されていたみたいで、給料は35円と有ります。
上の等級は給料に関する等級だと思います。
毎年、等級が上がり給料も1年で5円程度上がっていました。
この当時は現在の様な交通手段が無く通勤方法は限られていて、女学校を卒業した独身時代は自分の実家に近い学校で、結婚すると夫の実家で暮らしていたので、その近くの学校に勤務と変わっています。
今なら車で直ぐなのですが、昭和の10年代だとかなり遠いです。
同じ時代の軍曹レベルで、母親の給料の額の3~4倍はあったみたいです(親父の話)
親父は軍から支給される手当の送り先を自分の親にしていた。
ところが一円のお金も母親には渡されていなかった。
親父の下には6人の弟妹がいてたし、貧しい農家だったのでそんな感じになってしまったのだろう。
後にその事を知った親父は激怒して、送り先を妹にしたら、今度は妹が全て使い込んだと言うのだから、、、。
私には笑い話に聞こえたが、当時の母親は苦労したのだろうと思います。
第二次世界大戦がはじまってからの戦地はフィリピンからニューブリテン島のラバウルに移り、ラバウルをベースにして近くの色々な島に上陸することになります。
-40℃にもなるロシアとの国境付近から、赤道直下の島に・・・
戦史に残る様にラバウルには大量の日本兵が駐留しました。
ラバウルの町だけは侵攻されなかったが、包囲された状態になった。
それ以外の町やその付近の島々はほぼ全滅状態になります。
弾も食料も無く、ネズミや色々な野生動物を食べてしのぐ日々で、終戦直前には人肉も食べたと言われたりしています。
(その真偽は分かりません)
何故、仲間や部下は全滅して戦死となったのに、親父は生き残ったかと言うと・・・
それはマラリアに罹ってしまったのです。
昭和19年の初めに本土に帰り、広島の療養所での生活になった。
その帰路の船中で、今までいた島が全滅した情報を知ったらしいが、自分も何時アメリカの潜水艦に攻撃されても不思議ではない状態で、長い戦争経験でその船の中にいる時が一番の恐怖だったと。
直ぐ近くで爆弾が破裂したり、となりで仲間の兵士が銃弾で倒れたりする経験が有っても、自分が戦えない時の恐怖は大きいのでしょうか。
昭和16年12月からの話は色々と有るのですが、長くなるので、またいつかの機会に詳しく書く事にします。
戦争はいったん始まると終わる理由が無くなる。
お互いに大きな損害と憎しみが有る状態で、お互いが納得する終戦はあり得ません。
ウクライナが、もしモスクワなどを攻撃する事になれば、本格的な戦争が始まります。
ロシアの理不尽なふるまいには腹が立つ事ばかりですが、どうかウクライナ内での戦いで、何とか決着して欲しい物です。対岸の火事として捉えている感じのする私・日本人としては恥ずかしい限りですが、どうなっても納得する結果などはありません。
占拠された国土を取りかえしたら戦いはやめるとウクライナが言っても、ロシアはやめません。
今は領土を取り返すと言っても、その状態になれば、多くの国民を殺されたウクライナの人々は領土の確保だけでは納得しません。
どの様な理不尽で不平等な状態でも、戦争を止める機会を逃がしてはならない。
前に進めば国民が不幸になるだけです。
これが実際に戦争を経験した親父から話を聞いて出した、、、私の答えです。