「これはその預言者たちの罪、祭司たちの咎のためである。彼らは、その町のただ中で、正しい人の血を流した。」(哀歌4:13新改訳)
エレミヤも預言者のひとりであったから、この告白は自分に対する痛罵ともなっている。▼エルサレムは決して敵に攻め込まれることなく、今日まで存在してきた。なぜか?と問われるなら、神の聖臨在が火の垣のように城壁となっていたからである。しかしその垣は、人々の敬虔が崩れるなら倒れざるを得ない霊の城壁だったのだ。而してユダの敬虔を維持すべき責務を与えられていたのが、預言者や祭司たち、神に直接仕え、御声を聞いて国民に伝えるべく生かされている人々であった。▼悲しむべきことに、この人々が罪を犯して堕落し、選民の信仰生活を空洞化させたのである。彼らは神の御心と正反対の預言をし、人々に偽りの安心を与え、真実を語り続ける正しい預言者たちを執拗(しつよう)に迫害し、いのちをねらった。その最終結果こそ、今見るエルサレムの惨状ではないか。エレミヤは張り裂けそうになりながら、痛恨の涙を流して慨歎(がいたん)する。◆私たちキリスト者は新約の預言者であり、祭司である。「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」(Ⅰペテロ2:9同)とペテロが言うように。これは貴いことであると同時に、大きな責任を与えられていることを意味する。もし預言者が、「これは神のことばです」と言っていることがまちがっていたらどうなるであろう。祭司が敬虔な儀式をしても、実はそれが神に受け入れられていないとすれば、どうなるか。◆まさにエルサレムの滅亡と崩壊がその答えだったのである。国民は完全に欺かれていたことに気づいたのであった。だから廃墟の中で、同じようにさ迷っている預言者と祭司たちに、「向こうへ行け、汚れた者。さわるな。二度とここにとどまるな。うそつき」(→哀歌4:15)と罵声をあびせたのであった。同じことが最後の日に、天国の門前で起きるかもしれない。◆「その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇蹟を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全くしらない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」(マタイ7:22,23同)