しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 哀歌4章 <預言者たちの罪>

2018-06-25 | 哀歌

白「これはその預言者たちの罪、祭司たちの咎のためである。彼らは、その町のただ中で、正しい人の血を流した。」(哀歌4:13新改訳)

エレミヤも預言者のひとりであったから、この告白は自分に対する痛罵ともなっている。▼エルサレムは決して敵に攻め込まれることなく、今日まで存在してきた。なぜか?と問われるなら、神の聖臨在が火の垣のように城壁となっていたからである。しかしその垣は、人々の敬虔が崩れるなら倒れざるを得ない霊の城壁だったのだ。而してユダの敬虔を維持すべき責務を与えられていたのが、預言者や祭司たち、神に直接仕え、御声を聞いて国民に伝えるべく生かされている人々であった。▼悲しむべきことに、この人々が罪を犯して堕落し、選民の信仰生活を空洞化させたのである。彼らは神の御心と正反対の預言をし、人々に偽りの安心を与え、真実を語り続ける正しい預言者たちを執拗(しつよう)に迫害し、いのちをねらった。その最終結果こそ、今見るエルサレムの惨状ではないか。エレミヤは張り裂けそうになりながら、痛恨の涙を流して慨歎(がいたん)する。◆私たちキリスト者は新約の預言者であり、祭司である。「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」(Ⅰペテロ2:9同)とペテロが言うように。これは貴いことであると同時に、大きな責任を与えられていることを意味する。もし預言者が、「これは神のことばです」と言っていることがまちがっていたらどうなるであろう。祭司が敬虔な儀式をしても、実はそれが神に受け入れられていないとすれば、どうなるか。◆まさにエルサレムの滅亡と崩壊がその答えだったのである。国民は完全に欺かれていたことに気づいたのであった。だから廃墟の中で、同じようにさ迷っている預言者と祭司たちに、「向こうへ行け、汚れた者。さわるな。二度とここにとどまるな。うそつき」(→哀歌4:15)と罵声をあびせたのであった。同じことが最後の日に、天国の門前で起きるかもしれない。◆「その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇蹟を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全くしらない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」(マタイ7:22,23同)


朝の露 哀歌3章 <なぜ不平を>

2018-06-21 | 哀歌

大木「主が命じたのでなければ、だれが語って、このようなことが起きたのか。わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。生きている人間は、なぜ不平を言い続けるのか。自分自身の罪のゆえにか。」(哀歌3:37~39新改訳)

信仰のすばらしさは、いかなる苦難や悲劇の中におかれても、そこに神のみこころを見出すことができる、という点にある。▼ユダ王国に臨んだ破滅の深刻さは、どんな筆致をもっても十分に描き得ないほどであった。しかし預言者は、火と煙と血の海の中で言うのである、いと高きお方は正しい、すべては主の御心のうちでなされたことなのだ、と・・・。▼万事が平和で、何事も順調に運んでいるかに見える時、「神は正しく、恵みに満ちた方である」というのは容易(たやす)いであろう。しかしヨブのように夢にも思わない苦難に落とされたとき、あるいは族長ヨセフのように無実の罪で地下牢に投げ込まれたとき、そしてここにあるように、祝福を約束された王国が廃墟に変わった時、「すべては神の御旨によってなされたのです」と聖名をほめたたえる、それが信仰である。▼あきらめではない。「すべては運命だ」ということとも違う。なぜなら、そのような人生観から賛美は出て来ないからだ。エレミヤの心には、どんな者も絶つことのできない不死鳥のような信仰が宿っている。それが彼をして祈らせる。「主は、いつまでも見放してはおられない。主は、たとえ苦しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。」(31~33)▼敵はエレミヤを深い泥水の井戸に投げ込んだ。「私を穴に落として、いのちを滅ぼそうとし、私に石を投げつけた。水は私の頭の上にあふれ、私は『断ち切られた』と言った」(53,54)。だが、彼の心にある祈りは断ち切られなかった。「主よ、私は御名を呼びました。穴の深みから。あなたは私の声を聞かれました。私のうめき声に、私の叫びに、耳を閉ざさないでください。私があなたを呼び求めると、あなたは近づき、『恐れるな』と言われました。」(55~57)▼おお私たちも祈りたい、日本の教会の上に神が近づいて来られ、恐れるな、と声をかけてくださる時が来るまで。


朝の露 哀歌2章 <悲惨な光景>

2018-06-20 | 哀歌

金岡公園「主よ、よくご覧ください。だれにこのようなしうちをなさったのかを。女たちが、自分の胎の実を、養い育てた幼子を食べてよいでしょうか。祭司や預言者が、主の聖所で虐殺されてよいでしょうか。」(哀歌2:20新改訳)

エルサレムはゼデキヤ王の9年から11年まで包囲され、兵糧攻めにあった。人間にとり、食べ物がなくなった時ほど悲惨なことはない。女性は狂って子どもたちを食べ、わずかな物をめぐって市民たちは殺し合いをしたのである。しかしそうなることは800年以上前、すでにモーセがはっきり警告していた。▼「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。・・・あなたは包囲と、敵がもたらす窮乏のために、あなたの神、主が与えてくださった、あなたの胎の実である息子や娘の肉を食べるようになる。あなたのうちの優しく上品な女で、あまりにも上品で優しいために、足の裏を地面に付けようともしない者でさえ、愛する夫や、息子や娘に物惜しみをし、さらには、あらゆる欠乏のために、自分の脚の間から出た後産や自分が産んだ子さえ、ひそかに食べることまでする。あなたの町囲みの中が包囲と、敵がもたらす窮乏の中にあるからである。」(申命記28:15~57同)▼モーセの描写は、まるでエルサレムの廃墟に立っているかのように詳細を究めている。御聖霊以外に、だれがこのような預言を記しえようか。モーセだけでなく、すべての時代にわたり、神は、契約を破り、偶像礼拝と罪にふければ悲惨な運命がおそいかかることをくり返し告げ、警告して来られた。それがとうとう実現してしまったのである。とはいえ、その場で光景を目にしたエレミヤは、悲憤のあまり、こんなことが起きてよいのですかと叫んでしまう。世の終わりにも同じことが世界規模で起きるであろう。黙示録が告げるように、終末世界に起きる悲劇は規模と程度において哀歌をはるかに上回るであろう。モーセではないが、私たちも神による審判の到来とそこから逃れるにはどうすべきかを語るべきである。


朝の露 哀歌1章 <聖所の中にまで>

2018-06-19 | 哀歌

赤ばら「敵は、彼女が宝としているものすべてにその手を伸ばした。諸国の民がその聖所に入るのを彼女は見た。あなたの集いに加わってはならないと、あなたが命じた者たちが。」(哀歌1:10新改訳)

ユダ最後の王、ゼデキヤの第9年、バビロン軍はエルサレムを包囲し、同11年までそれを続けたため、町は深刻な飢えに陥り、ついに力つきた。バビロン軍はそれを見て総攻撃をかけ、市内に突入、エルサレム神殿の中まで侵入して狼藉(ろうぜき)のかぎりをつくした。もちろん屍は山をなし、犠牲者の血は川のように市内を流れたであろう。今より2,600ほど前の出来事である。▼エレミヤは監視の庭に収容されていたので、地獄さながらの様子を目撃し、兵士たちが神殿の中まで入っていくのを見たに違いない。もともと、エルサレム神殿はイエス・キリストのひな型ではあるが、神の臨在がおおっていて、その聖を犯そうとする者はきびしく撃たれた。たとえば強引に聖所に入ろうとしたウジヤ王は瞬間的にツァラアトになったと記されている(Ⅱ歴代誌26章)。▼しかし王国末期になると、国民の堕落がひどくなり、不敬虔がユダに満ちるとともに神の臨在は去り、バビロン軍が聖所に入っても神に撃たれることはなかった。それどころか神殿は破壊され、めぼしい貴金属や宝物は根こそぎ略奪され、廃墟と化したのである。「今や彼らは、手斧と槌で聖所の彫り物をことごとく打ち砕きあなたの聖所に火を放ち、あなたの御名の住まいをその地まで汚しました。」(詩篇74:6,7同)。▼主の御臨在は放射能のような物理現象ではない。礼拝者たちが敬虔な心で額ずき、ひれ伏している時にこそ、それを受け入れたしるしとして、神の御心によって現わされるのである。たとえ私たちキリスト者でも、罪を犯し続けて聖霊を憂えしめるなら、毛を切られたサムソンのように無力となり、無様な姿をさらし、世の人から笑い者にされるのが落ちだ。だから深い悔い改めの態度をもって御前に出なければならない。「だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。」(黙示録2:5同)▼御父をこよなくあがめ、敬虔と天の聖に満ちておられた主イエスの御姿を心行くまで味わい、私たちも地上の聖所とさせていただきたい。