しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <エフタとエフライム>

2024-11-11 | 士師記
「エフタはギルアデの人々をみな集めてエフライムと戦った。ギルアデの人々はエフライムを打ち破った。これは、エフライムが『あなたがたはエフライムからの逃亡者だ。ギルアデ人はエフライムとマナセのうちにいるべきだ』と言ったからである。」(士師記12:4新改訳)

ギデオンのときもそうだったが、ここでもエフライム族の高ぶりが部族の間にトラブルを起こした。すなわち、彼らはアンモン人、ギルアデ人とエフタが戦ったときは傍観(ぼうかん)していただけなのに、エフタが勝利すると「なぜ私たちを放っておいて、勝手に戦いをしたのか」と難癖(なんくせ)をつけたのである。▼エフタたちが怒って内戦をはじめたのも当然であろう。はたせるかな、数をたのんで戦闘をしかけたエフライム族はみじめな敗北を喫した。それは彼らが同じイスラエル人であるギルアデの人々をあなどったからだ。「お前たちは私たちのところからヨルダン東岸に逃げて行った逃亡者にすぎない」とは侮蔑的(ぶべつてき)な言葉である。神は傲慢(ごうまん)な人間に勝利を与え給(たま)わない。へりくだる者こそが神の側に立てる。▼今も、「おれを無視して、かってなことをするな」と、すぐ怒り出す人がいる。それなのに、大事なときに知らん顔をしていたのに、である。人の心にひそむ自我性とはわざわいなものだ。これが悪魔から発している罪の姿だということが、わからないのだから。▼不思議なもので、キリストと共に古い自我が死んだという経験をすると、自分が無視されることに腹が立たなくなる、それどころか無視され低くされることに喜びをおぼえるようになるのである。理由はイエス・キリストがその道を歩まれたお方だからであり、そこに聖化、キリストとの一致があるからなのだ。来たるべき神の国は謙遜という大気が満ちた国だ、ということを忘れてはならない。