しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <大祭司キリスト>

2025-01-31 | ヘブル書
「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のために献げるように、任命されています。」(ヘブル5:1新改訳)

ここには大祭司の職分(しょくぶん)が簡潔(かんけつ)にまとめられている。ところが、この定義(ていぎ」)にかなう「大祭司にふさわしい人間」を神は一人も見出すことができなかった。理由は「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ローマ3:23同)とあるのが人間の真相だからである。▼そこで神は、罪なき完全な人を得るため、ご自分の唯一(ゆいいつ)の子に肉体を与え、地上に遣わされた。これがナザレのイエスである。しかもただ一度のささげ物で人類とこの全世界を完全にあがなうため、ご自分のいのちをそなえものとして十字架にささげるために来られたのだ。▼ナザレのイエスが私たちにとり、どれほどありがたい存在かをよく思わなければならない。もし神がひとり子に受肉を命じ、ひとり子がそれに喜んで従うことがなかったら、私たち人間は一人残らず永遠のゲヘナに投げまれていた。文字通り間一髪(かんいっぱつ)の差で救われたのである。

朝の露 <アブネルの死>

2025-01-30 | Ⅱサムエル記
「アブネルはイシュ・ボシェテのことばを聞くと、激しく怒って言った。『この私がユダの犬のかしらだとでも言うのか。今日、私はあなたの父サウルの家と、その兄弟と友人たちに真実を尽くして、あなたをダビデの手に渡さないでいる。それなのに今日、あなたは、あの女のことで私をとがめるのか。』」(Ⅱサムエル3:8新改訳)

アブネルは優(すぐ)れた武人(ぶじん)だったが、敬虔(けいけん)な信仰はなく、亡き主君サウルの側女(そばめ)と不倫(ふりん)の罪を犯し、それを息子イシュ・ボシェテにとがめられると激昂(げきこう)した。あなたは誰のおかげでサウルの後継者(こうけいしゃ)としてとどまっていられるのか、というわけである。▼アブネルはこの傲慢(ごうまん)さのゆえに、やがていのちを失った。すなわち、ダビデの家来ヨアブに暗殺されたのである(27)。ただし、ヨアブは私恨(しこん)からアブネルを討(う)ったので、それはそれで神の前に大きな罪であった。どんなに大きな力を持った武将(ぶしょう)でも、神を恐れず自らの力を誇り、欲望のまま行動すれば最後は墓穴(ぼけつ)を掘る。アブネルもヨアブ(→Ⅰ列王記2:28~34)もダビデの下にいながら、みじめな死をとげた。

朝の露 <激しい戦い>

2025-01-29 | Ⅱサムエル記
「その日、戦いは激しさを極め、アブネルとイスラエルの兵士たちは、ダビデの家来たちに打ち負かされた。」(Ⅱサムエル2:17新改訳)

サウルの戦死後、イスラエルを統率したのは将軍にあたるアブネルで、彼はサウルの息子イシュ・ボシェテをイスラエル王とした。だが預言者サムエルにより油注がれ、王と定められていたのはダビデであり、それは周知の事実となっていた。となれば、国内はサウル派とダビデ派にわかれ、争いが始まるのは当然である。▼ここでもアブネルの信仰的資質が問題になっている。彼が主をおそれ、敬虔に歩んでいたなら、神のお心に従ってダビデを次の王にすることに尽力したにちがいない。たとえ、サウルにどれだけ恩義を感じていたにしても、それは別の問題だったからである。が、彼にはわからず、自己の野心も手伝ったのか、サウル家再興のため働こうとした。▼こうしてイスラエルには二年に及ぶ内戦が始まり、犠牲者が出ることなり、最後にはアブネルも悲劇的死を迎えることになった。人の不信仰は何の益も産まないことがわかる。私たちもこの世に属する義理、人情などに必要以上にしばられるべきではない。真の正義とは人ではなく、神のお心に従うこと、すなわち「神第一、信仰第一に生きること」だ。主が神の国とその義とを第一に求めなさい、と言われたように。

朝の露 <哀悼の意>

2025-01-28 | Ⅱサムエル記
「彼らは、サウルのため、その子ヨナタンのため、また主の民のため、イスラエルの家のために悼み悲しんで泣き、夕方まで断食した。サウルらが剣に倒れたからである。」(Ⅱサムエル1:12新改訳)

自分をあれほど苦しめ、いのちをねらい続けたサウルが戦死した。ふつうなら快哉(かいさい)を叫んでも良いはずなのに、ダビデはそうしないで悲しみ泣き、夕方まで断食した。彼の敬虔な信仰姿勢が本章によくあらわれている。▼ペリシテ人は自分たちの大勝利に有頂天になり、イスラエルは王一家を失った衝撃(しょうげき)とこれからの不安な運命を予想し、意気消沈(いきしょうちん)してしまった。しかし、ダビデの復活とともに新しい時代が始まろうとしていた。▼この世の王国と異(こと)なり、イスラエルは祭司の国であり、その支配者は誰にもまさってあつい信仰者であることが求められた。ダビデは主を愛する愛に燃え、その臨在を慕い求めながら生涯を送った人である。つまり王なる祭司として理想的な資質(ししつ)を神から与えられていた。この稀有(けう)な人物のもとで、イスラエルは真の発展を遂げることになる。▼ダビデの資質は私たちキリスト者の資質でなければならない。なぜなら、私たちは信仰により「ダビデの子」イエスにつながったからである。罪がゆるされ、主の聖霊を宿すことにより、キリスト者は来たるべき永遠の国において王なる祭司となることが定められた。サムエル書によってダビデの生涯を味わい、詩篇に没入することによって、彼の魂の世界、限りなく深い預言の世界を心行くまで味わうものとなろう。そのとき、私たちのうちに、知らず知らずのうちにキリストのはなよめの霊性が形造られていくだろうから。

朝の露 <サウルと息子たちの死>

2025-01-27 | Ⅰサムエル記
「翌日、ペリシテ人が、刺し殺された者たちからはぎ取ろうとしてやって来たとき、サウルと三人の息子たちがギルボア山で倒れているのを見つけた。」(Ⅰサムエル31:8新改訳)

当時、武具は貴重品であり、戦勝軍は敗北した敵軍の武具や軍服をはいで戦利品とした。ペリシテ人たちは、長年の仇敵(きゅうてき)サウル一族の死体を見て、装具を奪(うば)っただけでなく、その首を切り取り、胴体はベテ・シャンの城壁(じょうへき)に親子ともどもさらしものにした。じつに残忍(ざんにん)な仕打(しう)ちであった。▼ただ、考えてみると、このような結果になったのは、サウルが神のお心に従わず、あくまでも王位にしがみつき、神の選んだダビデの生命を狙(ねら)い続けたことにあった。もし彼が、へりくだって生前から王位をダビデに明け渡し、自分はその部下としての地位に甘んじていれば、一族の繁栄(はんえい)は長く続いたであろう。▼悪魔の本性=高ぶりを宿してしまった人間にとり、頂上に登るよりもはるかにむずかしいのは、そこから下ることである。それができるのは、弟子たちの足を喜んで洗った主イエスの心を宿す以外にはない。「イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。」(ヨハネ13:3~5同)