しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <ヨアブの残忍さ>

2025-03-03 | Ⅱサムエル記
「アマサはヨアブの手にある剣に気をつけていなかった。ヨアブは彼の下腹を突いた。それで、はらわたが地面に流れ出た。この一突きでアマサは死んだ。ヨアブとその兄弟アビシャイは、ビクリの子シェバの後を追った。」(Ⅱサムエル20:10新改訳)

ダビデの軍団長だったヨアブは、自分の地位を誰にも渡そうとはしなかった。だが今、ダビデはヨアブに愛想をつかし、アマサをヨアブと交代させようと考えていた。ヨアブの陰険(いんけん)で残酷(ざんこく)な性格は、そうさせるものかと、アマサに何の落ち度もなかったのに油断させ、だまし討ちで殺したのであった。▼世の中には自己の地位と立場を守るため、平気で邪魔者(じゃまもの)を殺す人々が存在する。そこには正義も理屈もない、あるのは欲望と暴力のみ、ヨアブはその典型的人物であった。▼パリサイ人や祭司長たちは、自分たちの立場と権益を守るため、ナザレのイエスに何の罪もないのに「神を冒瀆(ぼうとく)した」と言って十字架にかけた。ヨアブと彼らに千年のへだたりはあっても、心は一つで、動機は悪魔から出ており、神に対する憎しみと反逆であった。私たちキリスト者といえど、この恐ろしい邪悪性からきよめられないかぎり、思いがけないときと場合に悪魔の奴隷にされ、ヨアブとまではいかなくても、正しい人を排除する罪に陥ることがある。▼そこで、いつも十字架を仰ぎ、砕かれつつ、御霊の示される道を行かなければならない。主に十字架への道を避けさせようと忠言し、「下がれ、サタン、あなたは、わたしをつまずかせるものだ」(マタイ16:23同)ときびしく怒られたペテロを思い出そう。

聖日の朝に <ペンテコステとペテロ>

2025-03-02 | みことば静想
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12新改訳)

イスラエルのサンヒドリン議会に立たされたペテロとヨハネはきびしい尋問をものともせず、堂々と弁明した。私たちは、あのゲッセマネや大祭司の庭で、おどおどしながら「あんな男(主イエスのこと)は知らない」と言い訳したペテロたちの姿とあまりにもちがっているのでおどろく。その理由はただ一つ、ペンテコステの日、彼らが聖霊に満たされたことであった。聖霊は弟子たちの心から不信仰と恐れを除いて焼き尽くし、主イエスの復活に対する絶対の信仰で満たしたのである。▼今日、教会が必要としているのは、この満たしである。なぜなら、今現在も地球上のいたるところでキリストの福音に対する迫害と攻撃が満ちているからだ。まさにペテロたちの時代と状況は少しも変わっていないのである。クリスチャンが聖霊の力によらず、肉の勇気でこれらに立ち向かうことはできない。悪魔から出ている暗闇の力を破り、ほんとうの勝利を得るために聖霊の満たしを祈り求めようではないか。

朝の露 <聞くのに早く>

2025-03-01 | ヘブル書
「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。」(ヤコブ1:19、21新改訳)

人はだれでも、自分の心を知ってもらいたいとの強い要求心を持つ。なので、「聞くのに遅く、語るのに早く、怒るのに早い」のである。中には、他人の声にまったく聞く耳を持たず、一方的にしゃべりまくる人もいる。それに対し、ヤコブは、まず他者の言う言葉に謙虚(けんきょ)に耳を傾(かたむ)けることが大切で、神の愛と謙遜を抱いた人にして、それははじめて可能になるという。▼イエス・キリストは人として地上に来られたとき、まず父なる神のおことばに聞き入ることから一日を始められた。「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂(さび)しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35同)とあるように、人にとって最重要なのは、まず神のお心を知ることである。▼天の父にまず聞くという生き方をしない人は、隣人(りんじん)の言葉を聞くことができない。その結果、誤解(ごかい)、争い、怒りがくりかえされる。

朝の露 <主は私の助け手>

2025-02-28 | ヘブル書
「ですから、私たちは確信をもって言います。『主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。』」(ヘブル13:6新改訳)

金銭は人がいちばん頼りにするもの、安心の土台である。が、ヘブル書は金銭ではなく、キリストが共にいてくださる事実こそ、信仰者の確信と安心の土台だと強調してやまない。▼悪魔は主イエスを荒野で誘惑したとき、全世界の富を見せ、私を礼拝するならすべてをあなたに上げようと言った。彼は人間が富(金銭)に対して最も弱いことを知りぬいている。しかし主は「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」(マタイ4:10同)と、これを断固(だんこ)拒否された。また、パウロも「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」(Ⅰテモテ6:10同)と述べたように、この世は富みへの欲望とあこがれのために、みなサタンの奴隷となり、滅びへの坂道をころげ落ちている、というのが真相である。▼キリスト者は神の約束にしっかり立ち、悪魔に向かって「主は私の助け手だ。富をちらつかせ、迫って来るお前の誘惑など少しも恐れない」と宣言すべきである。事実そのとおりなのだから。

        神はわがやぐら   <新聖歌280 マルチン・ルター>
①神はわがやぐら わが強き盾 苦しめる時の 近き助けぞ
 おのが力 おのが知恵を 頼みとせる 陰府の長も など恐るべき
②いかに強くとも いかでか頼まん やがては朽つべき 人の力を
 我と共に戦いたもう イエス君こそ 万軍の主なる 天つ大神(おおかみ)
③悪魔世に満ちて よし脅すとも 神のまことこそ わが内にあれ
 よみの長よ 吠え猛りて迫り来とも 主の裁きは 汝が上にあり
④暗きの力の よし防ぐとも 主のみことばこそ 進みに進め
 わがいのちも わが宝も 取らば取りね 神の国は、なお我にあり

朝の露 <ヨアブの高ぶり>

2025-02-27 | Ⅱサムエル記
「さあ今、立って外に行き、あなたの家来たちの心に語ってください。私は主によって誓います。あなたが外においでにならなければ、今夜、だれ一人あなたのそばにとどまらないでしょう。そうなれば、そのわざわいは、あなたの幼いころから今に至るまでにあなたに降りかかった、どんなわざわいよりもひどいものとなるでしょう。」(Ⅱサムエル19:7新改訳)

ダビデの部下であり、軍の統率者だったヨアブの心には高ぶりが次第に成長していた。いつのまにか王よりも自分を上に置き、ダビデを精神的に支配しようとしていたことがわかる。▼陰険(いんけん)さと権力欲(けんりょくよく)に満ちていた彼は、王の思いに逆らってアブシャロムを惨殺(ざんさつ)し、なにくわぬ顔をしながらダビデをおどかした。そこには、自分こそユダの実質的なリーダーであるとの傲慢(ごうまん)さが見え隠れしている。▼神に油注がれたという事実をおそれ、どんなときにもサウルに逆らわなかったダビデと、なんと大きな違いであろう。このあとヨアブはアマサを殺し、アドニヤに組みしてユダの王にしようとたくらみ、結局、ソロモンに殺された。彼の結末は反逆罪に対する当然の報いであった。▼キリスト者がなによりも警戒しなければならないのは、いつのまにか心中に傲慢が成長することである。そこで、いつも意識して謙遜であろうと努め、他者の警告には進んで耳をかたむけなければならない。ペテロが身の程知らずに主イエスをいさめ、「主よあなたにそんなことが起こるはずがありません」と言ったとき、主はべテロを「サタンよ、退け!」と一喝された。神が信仰者を聖徒として天に迎えようとするために、最大のちからを注がれるのは、謙遜という学課を学ばせることにほかならない。そこで、この授業を受けつつあるキリスト者は、じつに幸いというべきである。