しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <エレミヤの嘆き>

2024-11-10 | みことば静想
「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。のろわれよ。私の父に、『男の子が生まれた』と知らせて、大いに喜ばせた人は。」(エレミヤ書20:14,15新改訳)

旧約聖書中に、「私の生まれた日はのろわれよ」と言って悲しんでいる人がいるが、それはヨブとエレミヤである。▼特にエレミヤは若くして神に召され、ユダの人々にその罪を示すよう命じられた。ところが彼がエルサレムを中心に、人々に悔い改めを叫べば叫ぶほど、みな彼を嘲笑い、ののしり、様々な迫害を加えて殺そうとしたのである。四面楚歌の中で、単身メッセージを語り続けるエレミヤ、あまりのつらさに「もう語るのをやめよう」と決心すると、神のことばが彼の心の中で燃えだし、迫り続けるため、苦しくてたまらない。それで次の日になると、彼は起き出てエルサレム神殿に出かけ、集まって来る人々に罪を悔い改めよ、と呼びかける。飛んでくる石のつぶて、投げかけられる非難と嘲笑、たった一人も味方になる人はいなかったのであった。▼御霊に満たされ、導かれて生きることは、すばらしいことである反面、孤独、悲しみ、涙の生涯を送ること、それがエレミヤの生き方からわかる。使徒パウロも「私は言います。御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16同)とガラテヤの信徒たちに書き送ったが、彼自身もキリスト者たちから捨てられ、最後はローマの獄中で殉教していった。第一、私たちの主イエスご自身も「涙と悲しみの人」であり、十字架上で一人、罪を負う小羊となられたのである。▼エレミヤの歩んだ道、もし私たちも御国において聖徒たちとともに喜ぼうと願うなら、そこを進むことをためらってはならない。