戸籍上では、亀山駅から多気駅、新宮駅、白浜駅などを経由し、南海電鉄・和歌山市駅までを結ぶJR紀勢本線。
私自身とのお付き合いは昭和51年頃の大学生時代からだったかな。当時は新宮~和歌山間で電化工事が進められていた頃でしたね。その時には太地町内にて1泊しましたが、太地駅や湯川駅などは電化用の柱がそろそろ姿を現していましたね。復路はDF50型が牽いた普通客車列車に乗り、和歌山駅へ向かいましたが。
当時は竜華機関区から多彩な機関車や客車が出動していたものでした。阪和線は関東で言えば高崎線のような存在。早くから複線電化されていたものの、EF52型や70系電車など古い形式車両が多かったような気がします。
紀勢本線では亀山~新宮間も、国鉄時代には何度か電化計画が浮上したものの、結局、実現していませんね。また、和歌山市~和歌山間は一部区間が南海本線所有のせいか、電化は何年か持ち越されたと思います。紀和駅近くには南海本線への渡り線があり、かつてはキハ5500形やサハ4801による急行“きのくに”が経由して白浜駅や新宮駅にも直通していたものでしたね。国鉄側のスハフ42形が南海難波駅に代走で乗り入れたこともあります。この渡り線には今でも架線が張られていないようです。
紀勢本線自体の敷設計画は明治時代後期からあったものの、特に尾鷲~熊野市(現在)間はかなりの山岳地帯で度々、工事が中断。戦後ようやく再開したものの、全通までには15年近くも掛かりました。そして、この全通の時点で多気~新宮間は完全に無煙化されたようだ。この時に主役だったDF50型は、ほぼ同じ頃に土讃線や日豊本線にも入り、特に急勾配が多かった多度津~高知間は完全無煙化を果たしました。しかしながら、四国島内になぜDD51型が一度も使われなかったのだろうか?
紀勢本線での最後の開業は三木里~新鹿(あたしか)間で、その時に紀伊木本駅は今の熊野市駅に改称されたようだ。この区間は長いトンネルが多くて、確かに蒸気機関車の運行には向きませんね。しかしながら、比較的に平坦な和歌山~紀伊田辺間は昭和48年まで蒸気機関車が残りました。
また、その後の電化区間でも特に白浜~新宮間は、もともと線路があまり丈夫とは言えず、EF65型は入線出来ないため、軸重が比較的軽くできるEF58型、EF15型が専ら主役。後には、どうにかEF60型(500番台)が入りましたが、昭和61年11月のダイヤ改正で定期の貨物列車や客車列車は全廃に。同時に竜華機関区自体も廃止になりましたね。
その後はDD51型やDE10型が臨時客車列車を牽引していました。恐らく今のEH200型ならば何とか運用出来ただろうね。この時には既に竜華機関区がないため、機関車は亀山や宮原などから出張していたとか。
画像の本は、そういう紀勢本線や阪和線の歴史について取り上げています。