私自身が上諏訪温泉♨️や小海線を初めて訪ねたのは確か昭和39年7月頃だったかな。小2の夏休みが始まった辺りに父方の親類に誘われて、一家4人で出掛けました。3泊4日という当時としては豪華なものでした。
宿泊先は軽井沢町の旅館“つるや”で、令和時代になった今も健在だそうです。
国鉄名古屋駅から58系ディーゼル急行“第1しなの”に乗り、塩尻駅で下車。当時の塩尻駅は今の塩尻大門貨物ターミナルの位置にあり、中央西線から松本、長野方面に向かう列車は、いちいちバックして転線したものでしたね。客車列車や貨物列車は機関車が交代する場合が殆ど。名古屋~長野間は塩尻~松本間以外、非電化で、機関車もD50、集煙装置付きのD51(200、777、824、827号機なども含む)、DD51(2桁番台)、DF50(500番台)が中心。もちろんEF64やEH200なんかは、まだいません。
中央東線はまだ全線の電化が完成したばつかりで、篠ノ井線も松本~篠ノ井間が非電化なため、客車列車がまだまだ多かったような。
塩尻~辰野~上諏訪間はEF13が牽いた客車列車に乗りましたね。客車はスハ32、スハフ32で車内はニス塗り、照明も角張ったグローブ付きの白熱灯だったと思います。まだ、みどり湖ルートはなく、今なお単線の善知鳥(うとう)峠ルートを経由していました。行き先は確か、新宿行きだったかな。冬季は暖房車(マヌ34)を連結して対処していたようだ。
小海線に乗る前に上諏訪温泉♨️にて休憩。あの“片倉館”にてくつろぎましたね。初のお付き合いになりました。
上諏訪駅からは57系ディーゼル急行“すわ”に乗車。2両編成という実にこぢんまりとした姿でした。小海線の定期普通列車も既に52系でひとまずは気動車化されていたものの、高原野菜🌽や木材🪵等を運んだ貨物列車の牽引は、まだまだC56が奮闘していた筈です。
小諸駅で下車し懐古園を見学。その後、EF62が牽引した普通客車列車に乗り、目的地の軽井沢駅に到着したのは夕方でした。ここの区間の客車列車は軽井沢~横川間の急勾配対策でアプト時代後期から軽量客車が多用されており、私自身が当時、乗り合わせたのも恐らくナハ10かナハ11の2000番台だったように思います。客車列車の車内放送チャイム(ハイケンスのセレナーデ)を初めて聞いたのも、実は、この上野行きの定期普通列車が初めて。御代田(みよた)駅へはスイッチバックして入りましたね。
…………以上は、約58年前にタイムスリップしたような紀行文です。軽井沢町滞在中は、噴火🌋がやや激しかった浅間山周辺の北軽井沢(群馬県)や草津温泉にも寄りました。まだ当時の私自身は国鉄長野原線(今の吾妻線)の存在とか、太子(おおし)駅のことも全く知りませんでした。長野原線の渋川~長野原間は昭和42年頃までには電化されましたが、なぜか長野原~太子間は非電化のまま取り残されましたね。そして、後者は46年頃には正式に廃止されています。
…………そういう平和で楽しかった時代を蘇らせながら、残っていた画像をアップロードしておきましょう。