既にご周知かと思いますが、漫画・オバケのQ太郎、怪物くん、忍者ハットリ君、笑うセールスマン(←便宜上、こう表記させて戴きますが………)等々、昭和中期から平成にかけて多数の作品を輩出した藤子不二雄Aさんが先日、川崎市多摩区内の自宅内で倒れ亡くなられているのが発見されました。享年88。
前日までは元気だったらしく、あのラーメン好きの“小池さん”のモデルの方(同じく88歳男性)とも電話を交わしておられたとか。恐らくは急性心不全だったか。合掌。
本名は安孫子素雄さん。富山県氷見市出身で、実家は禅寺とか。しかしながら父親は早く他界されたそうで、小学生の時に高岡市内に転居されたとか。その転校先にて藤本弘さんとたまたま同じクラスになり出逢いましたね。これが漫画家志望の大きなきっかけになり、昭和29年にお二人揃って上京か。もし、これがなかったら、藤子不二雄自体が存在しなかったに違いあるまい。
あの木造2階建てのトキワ荘(←あの都営地下鉄大江戸線・落合南長崎駅にも程近いらしいが………)に下宿し、手塚治虫先生の厳しい指導を受けつつ、勉強されたようですね。そこでは、赤塚不二夫さん、石ノ森章太郎さんなどとの出逢いを果たされました。
しかしながら、あの赤塚さんは、あの時でもかなりの飲んべえだったらしい。落語家の立川談志さんとも古くから深い親交があり、まさに類は類を呼ぶ??
藤子不二雄合作としては昭和39年から始まったオバケのQ太郎がその代表。日曜日夜には取り敢えず白黒映像にて民放テレ(TBS系)で流され、その声は曽我町子さん(故人)だったと思います。居候先になった草野球⚾️好きの大原正太郎君宅。勉強嫌いで零点ばつかりの答案用紙。あのゴジラ君、木佐君などに虐められたものでしたわ。また、ひね豚みたいなクラス担任の先生や小言屋の神成さんにも叱られてばつかり。Q太郎君も犬が大の苦手で、糠味噌嫌いの米国出身のドロンパ君から散々に馬鹿にされていました。しかしながら、小柄ながらもしっかり者の妹P子などに励まされて青春時代を乗り切りましたね。因みに、正太郎君のお父さんは名古屋出身という課長級のサラリーマン。お母さんは元女子スケート選手という想定でした。週刊誌の少年サンデーも飛ぶように売れたとか。私自身は当時小2で、国鉄では東海道新幹線の開業が迫っていましたね。但し、ストーリーでは蒸気機関車もよく出ていましたよ。
赤塚先生作のおそ松くんも同時に掲載され、イヤミの「シェーッ!!」という言葉は当時の各新聞のニュース面の見出しにもなったほどです。但し、あの「おフランス」はちょいとばつかり、子供たちにあらぬ誤解を招いたとは思うが。うん。
私自身としては、今では殆ど忘れ去られたような飛び出せミクロとか、進めロボケットの方が印象的。こちらは、専ら小学館発行の小学生向けの月刊誌に掲載されていたと思います。
しかしながら、昭和40年以降は別々に漫画原稿を書くようになり、藤本先生は藤子・F・不二雄として独立。あの愛嬌豊かなベレー帽姿も大きな特徴でした。そして、昭和62年にはひとまずコンビを解消したものの、平成8年9月に62歳の若さで惜しくも病死されました。
テレビドラマでは確か、忍者ハットリ君+忍者怪獣ジッポウにもお二人で一度だけゲスト出演されたことがありましたね。この番組では松坂慶子さんもレギュラーで共演されました。本当に若かったなあ。
人生はドラマだ………とは彼の生前の口癖。まさしく、今後のNHK朝ドラのモデルの有力候補だろうね。
きっと今頃は、あの藤本先生と積もる話で一杯だろう。さては、北陸新幹線の無事開業や最近のウクライナ🇺🇦情勢のこともきちんと報告されたかな。藤子不二雄さん、長い間に亘り楽しい作品を本当にありがとう。