まず本題に入る前に………。
大阪市交通局改め大阪メトロでは、このほど中央線用の400系が相次いで落成。大阪港・コスモスクエア〜奈良県の登美ケ丘間にて試運転も始まっているようですね。
私自身はまだまだここ暫くは情報を集めるだけになりそうだが、この前頭部が物凄くキモい!!
まるで宇宙船みたいな顔だわ。(苦笑)
まあ、遊び心というか、クロスシートまで設けての凝りようだ。近鉄けいはんな線側もよく受け入れたものだわ。
どうせ近鉄奈良線に直通して伊勢志摩に向かったり、数々の踏切を通るわけでもないから、まだ良いが、何だかグロテスクな印象だな。(苦笑)
こんな前頭部。まさか、名古屋市交通局や東京都交通局、東京メトロないし直通先の各鉄道事業者が気持ち良く思うのかしら? 名鉄だと、幹部や日常利用者らはきっと「ふざけるな!!」と怒り出す方々も出よう。保守的な東武鉄道でもほぼ同じだろうに。
私自身もこんなおかしな格好の電車を設計する暇があったら、むしろハイブリッド集電列車の早期かつ真面目な開発・実用化を強く望みたいほどだ。
まず出現の可能性は極めて低かろうが、都営地下鉄5500系とか東急2020系のような半流線形ならば名鉄でも辛うじて何とか受け入れられそうな感じ。今の3500系や9500系と併結させても、さして違和感はないと思うが。うん。
………さて、昨今は不採算、つまり輸送密度4000人未満の地方鉄道の存廃論議が国交省などから取り沙汰されていますね。特に弘南鉄道とか北陸鉄道(特に石川線)、岳南鉄道、大井川鐵道、上毛電鉄の辺りなどは心配だ。JR線では関西本線中部、山陰本線西部、米坂線、陸羽東・西線、芸備線や福塩線の北部の辺りか? 城端線や氷見線のように電気式気動車の導入が具体化されているほどならば、そう心配もしていないが。
これら地方鉄道でも私鉄は戦前戦後を通じて、原則的には一般狭軌(1067ミリ)、架線電圧は直流600〜1500ボルト、車体幅は2744ミリ以下、車体長は17000〜18000ミリと定められてきました。
連結面間距離も片側250〜365ミリが一般的です。
戦後の旧運輸省は、この寸法を地方鉄道A'規格と敢えて指定。
名鉄では他でもない初代モ3800形から適用され、車体幅は2740ミリ、車体長は17000ミリ、連結面間距離は片側415ミリに。いわば、18.83メートル車となり、その後、今の6500系や3500系などでは車長17100ミリとはなりますが、全体的には18.83メートル車。9500系や3300系などでも頑なに守られています。
なお、2000、2200系では、車幅はなぜか2700ミリ。2000系は車体傾斜装置による振れの範囲が考慮されたそうで、2200系ではコストダウンのため、2000系と車体サイズを揃えたためとみられます。
この規格は車体更新された旧性能車にも適用。日本車輌製造では、松本電鉄のモハ10形とか、北陸鉄道のモハ6000形、岳南鉄道の銀電がそれらの代表でしょうね。
ただ、1960年代に入ると、旧国鉄からの車両払い下げもとみに増加。そうばつかりも言っていられなくなり、秩父鉄道や上信電鉄、長野電鉄、富山地鉄、富士急、果ては大井川鐵道や三岐鉄道までも建築限界寸法を旧国鉄並みにする形に至りました。なかなか純新車を導入出来ないような中小私鉄は競って改修することに。
当時の国鉄車両規格はモハ63形とか113系などを見れば、車長は19500ミリ、車幅は2950ミリ、連結面間は片側250ミリに。
また、特に黒い2軸貨車はあらゆる地方鉄道に乗り入れられるよう考慮されていたか。
ワム90000形などは名鉄岡崎市内線にもビューゲル付きの電動貨車に牽かれて、大樹寺や三河広瀬に向かっていたようだ。車幅は2743ミリで、今のコキ107形からは恐らく想像も出来まい。あの時にせめてZパンタがあれば、乗務員も遥かに楽だった筈だが。
昔の新名古屋駅では、黒いデキ600型に牽かれたワム70000形も見掛けた覚えがあります。やはり、スカーレットやブルーよりは、黒が遥かに似合うような印象でしたよ。
非電化の小湊鉄道や島原鉄道などは、当時の国鉄線乗り入れの関係からから早くから改修されていたようだ。そう言えば、過去には島鉄の冷房車が博多や長崎に急行“出島”として乗り入れていましたが、昨今での長崎本線西部の再度非電化もあり、少なくとも長与や長崎、出来れば新大村までは直通を再開させたいね。ただ、小湊鉄道もそうだが、島原鉄道にとってはYC1系は余りにも高い買い物だが。
また“出島”“弓張”“いなさ”の列車愛称も似合いそうにない。
小湊鉄道も国鉄千葉駅に一時的ながら乗り入れたことはありますが、その復活には、いっそのことJR東海のキハ85系を再整備して活用してみるのもそう悪くはない。
………実は終戦直後の名鉄でも運輸省から割り当てられたモハ63形を初代3700系として栄生〜豊橋間の一般特急や急行に使われたことがあったらしい。車体カラーは茶色のままで、連結器は自動式に交換。豊橋寄りからモ3700、ク2700の編成だったようだ。勿論、私自身はまだ生まれてはいなかったが。
但し、枇杷島橋付近の急カーブ通過不可のこともあり、栄生駅以西には入れず、僅か数年で東武鉄道や小田急に引き取られ、その代わりに3800系71両が急造されたとか。
もしあの時に枇杷島橋付近が改修されていたら、今の名鉄本線系の車両はJR東海315系並みのサイズになり、挿し込み型密着連結器も採用されていたに違いない。さらに、JR東海と名鉄の相互乗り入れが日常的になっていたのかもしれないね。
そして30年後には名鉄100系がデビュー。本格的な20メートル車にはなりました。このサイズは300系にも受け継がれていますね。しかし、車幅は2730ミリ、車長は19300ミリ、連結面間は350ミリで、315系に比べるとやや小ぶり。やむを得まい。名鉄式20メートル車とでも呼ぼうか。
その後も100系や300系並みのサイズの4扉車を名古屋本線や河和線、常滑線などの本線系にも置けとの声も一部ではありますが、もはや無理だ。さらに、100系や300系のほかに、キハ8200系は名古屋本線の岐阜駅には乗り入れ不可だったとか聞いたが、真偽は如何に?
その結果、未だに古臭い地方鉄道車体定規を頑なにも守っているのは名鉄本線系や瀬戸線、豊橋鉄道渥美線ぐらいだけか。
今の豊鉄渥美線がなかなか車両更新出来ないのも、これが原因には違いあるまい。