春 夏 秋 冬

めぐり来る 春夏秋 麗しき 大和し護れ 民草いとえ 
          

ブログ休止のお知らせ

このブログの表題に入れた短歌の、春夏秋冬の中の冬の字が、誰かによって削られて、修正不能になって久しいのですが、昨日から編集画面までが、誰かにいじられたようで、出す事が出来なくなっています。 この記事作成画面も、何時使用不能になるかもしれない状況にありますので、 春夏秋冬はこの記事をもって、しばらく休ませていただく事にしました。(2010年3月) * * * * * * *  Fc2ブログに不祥事が起き、広告主が引き上げたそうです。 Fc2は何時終了になるか予断を許さない状況かと思い、 気になる過去記事を少しずつ、こちらのブログに写す事にしました。(2015・4・24)

長崎 原爆記念日

2009年08月09日 11時33分56秒 | 思想信条
今日8月9日11時2分長崎に原子爆弾は投下された。
私の夫の兄は、軍事徴用で長崎の工場に勤務していた時、被爆し亡くなっている。
ほぼ爆心地だったので跡形もなくなっていたので、遺骨も出なかったけれど、即死だった分、被爆後言葉に尽くせない苦しみの後亡くなった人よりは、ましだったと言えるのかもしれない。
 原爆投下後日を経ないうちに、長崎に行き爆心地周辺を視て回った主人の父は、昭和36年67歳の時ガンでなくなった。
その時は誰も気が付かなかったけれど、義父の病気は長崎で受けた、
放射能が原因だったのかもしれないと、後になって気が付いた。
原爆投下の時、現地にいなかった人でも、後で被爆地を訪れて、放射能に健康を蝕まれた人は、原爆被害者とされてはいないけれど、大勢有ったのかも知れない。

私は被爆地と不思議に縁が有ったようで、
入学は広島市内の小学校で、昭和28年4年生の時転入学して、卒業したのは長崎市内の小学校であった。
長崎では身近に被爆した人とご縁は無かったので、あまり話を聞く機会は無かった。聞いたことがあるのは、小学校の同級生に、被爆した時お仏壇が体をすっぽり覆うようにかぶさって、命拾いした人が有ると言う噂話を聞いたくらいであった。
(長崎は細長い町で、被爆した地域と被爆せずに済んだ地域が離れていた所為かもしれない。)

私が中学生の頃平和公園に、今慰霊祭の時中央にあるあの平和祈念像が作られた。
今日その公園での記念式典で、長崎市長、被爆者代表の奥村さん、城山小学校の生徒の合唱を聞いた後で、続いて麻生総理が来賓として挨拶をされると言うところで、私達はテレビを切ってしまった。

先日の広島の慰霊式典で、核爆弾を無くすために勤めますと誓ったその舌の根も乾かない裡、同じ広島市内での記者会見で、
「核抑止力は必要である」と麻生総理が、記者団に向かって言ったという話を聞いて、又嘘の誓いを聞いても仕方ないと言う気がしたからである。

長崎で思い出されるのは、全国的にも有名な歌だけれど、
永井隆博士の事を詠った「長崎の鐘」である。
ご自分も被爆者で、原爆で傷ついた人の治療を、昼夜を通して懸命に続け、一息つけるようになった時、奥さんの亡くなった事を知られたそうである。
藤山一郎の透き通るような声とともに、その歌詞に何度涙を誘われた事だろう。
    長崎の鐘  
  こよなく晴れた 青空を
  悲しと思う切なさよ
  うねりの波の 人の世に
  はかなく生きる 野の花よ
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘は鳴る

  召されて妻は 天国へ
  別かれて一人旅立ちぬ
  かたみに残る ロザリオの
  鎖に白き 我が涙
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

  つぶやく雨の ミサの声
  たたえる風の 神の声
  かがやく胸の 十字架に
  ほほえむ海の 雲の色
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

  こころの罪を うちあけて
  更け行く夜の 月すみぬ
  貧しき家の 柱にも
  気高(けだか)く白き マリア様
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

    (サトウハチロウ作詞 古関裕而作曲)