ビーンの不定期日記

その日の事や思ったことを…

 「思いつき
   いかげん日記」

【父の戦争体験⑨】

2020-10-03 21:01:49 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験⑨】

これは母から聞いた戦時中の話。
母は大正10年生まれ。農家の長女として一家を支えた。母親は早くに亡くなり父親は身体が不自由だった。その為農作業をする傍ら3人の妹弟達の世話もした。
末弟が少年飛行兵に志願し山梨の兵学校に入った。或る日その弟から手紙が届いた。面会の日を知らせる手紙で、会いに来て欲しいと書いてあった。面会の日付を見ると明日だった。母は取るものも取り敢えず急いで山梨に向かった。
リュックに餅米だけを入れて。弟にぼた餅を食べさせてあげようと思ったのだ。
一昼夜かけてやっと山梨の駅に着いた。そこからは寄宿舎まで歩きだ。母は歩きながら思っていた。「この餅米を炊かなければならない。台所を使わしてくれる家はないだろうか」
一件の家を見つけた。母はその家の人に事情を話すと快く承諾してくれた。その家で餅米を炊くことが出来た。
面会できる時間は迫っていた。母は道を急いだ。しかし寄宿舎に着いたとき面会時間は終わっていた。弟に会うことは出来なかった。母は門番の兵隊に事情を話し作ったぼた餅を弟に渡してくれるようにお願いし東京に帰った。
その弟(私の叔父)は戦後グレて家を飛び出し度々警察の厄介になった。近所で評判の悪になった。母も父も相当苦労していた。叔父は住所不定無職のまま路上で倒れて亡くなっているところを発見された。
私が中学生の頃だった。

【父の戦争体験⑧】

2020-10-03 04:22:20 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験⑧】

アヒル事件。
これは父がシベリヤから帰国してからの話。
アメリカ人はクリスマスに七面鳥を食べるという話を聞いた父は一儲けしようと考えた。七面鳥は手に入らないので代わりにアヒルを売ったら駐留軍のアメリカ兵に飛ぶように売れるのではないかと思った。
早速、父は子供のアヒルをたくさん買ってきてクリスマスまでに大きく育てて売ることにした。東京の田舎のことである。アヒルを育てるには場所も餌も困らなかった。
クリスマスが近づきいよいよ市場に持って行こうとした或る日。
父がアヒルの飼い場に行ってみるとアヒルがみんな倒れていた。父の言葉を借りると「虫の息でグロッキーになっていた」そうだ。
父は言った。
「イタチにみんな血を吸われてしまったんだ」
当時はここ東京の江戸川区にもイタチが普通にいたのだ。
父の儲けの企みはこうして見事に失敗した。アヒルは売れず損しただけ。

生き物を飼うのが好きな父だった。
犬、ネコ、鶏、キジ、うさぎ、熱帯魚、鶯等々。私達子供もよく世話をさせられた。
私が動物に愛着があるのは父の影響だ。


【父の戦争体験⑦】

2020-10-01 11:02:58 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験⑦】

父は自動車の運転が出来た。自分で勉強して免許を取った。軍隊でも自動車を運転した。
或る日、自動車2台で上官を乗せて目的地に向かっていた。先頭の自動車は1番運転の上手い兵隊が運転することになっていた。父は先頭の自動車を運転することが出来なかった。先頭の次の2台目の自動車を運転することになった。
自動車を走らせていると突然敵の戦闘機がやって来て攻撃を受けた。
真っ先に先頭の自動車が狙われた。先頭を走る自動車には1番偉い人物が乗ることを敵は知っているので最初に狙われたのだ。爆弾が落とされ先頭の自動車は跡形もなく破壊された。乗っていた者は皆死んだ。
父の運転する自動車は攻撃から何とか逃げ切ることが出来た。
「俺が運転が1番上手くて先頭の自動車を運転していたら俺が死んでいた」
と父は言っていた。

戦場では何が生と死を分けるか解らない。
いつも死と隣り合わせだ。