瀬戸内寂聴さんの「あおぞら説法」(光文社)から抜粋です。
「“恋愛”を仏教では“渇愛”といいます。
渇愛というのは〈中略〉きりもなく相手に求める愛です。〈中略〉「もっと愛して、もっと愛して」とねだる愛です。
この渇愛は、愛した瞬間から苦しくなるんですね。しかもこの世でいちばん苦しい。
それは愛のかたちをとっているけれども、とどのつまりは相手の人を愛しているのではなく、自己愛だからなのです。
自分がその人を好きになったのがうれしいから、気持ちがいいから愛するのです。
自己愛は、結局相手に報酬を期待します。見返りを求めます。
恋愛をして、自分が好きになったら相手にも自分を好きになってもらいたい。
自分が心の愛を与えたら返してほしい。
いや、利息を付けて返してほしい。
期待どおりにいけば、これが人生でいちばん楽しいことだと思いますけれども、
〈中略〉ほとんどの場合、期待しただけのものは返ってきません。
そうすると非常に腹が立つ。〈中略〉
とにかく、愛すると同時に苦しみが起こる。
つまり、そういう恋愛-渇愛というものは、自分のものにしようという独占欲ですからね。
独占欲が起こると苦しくなるんですね。
嫉妬が伴うからです。
自分以外に恋人の目が移るのが心配でたまらない。
愛したと同時に苦しみが生まれる。
そんな苦しいことしなければいいと思うかもしれないけれども、
しかし、だれも愛さない、だれにも愛されない人は、やっぱり生きている甲斐がないような気がいたします。
神戸の被災者の仮設住宅の中で自殺する人は、もう愛する人がなくなって、
愛してくれる人もないと思うからだと思うんです。
家があって、衣食が足りていても、心が寂しいと人は生き甲斐を見失います。
そういう悲しいことにならないように皆さん、人を愛してください。
愛されるより愛する人になりましょう。
自分にだけじゃなく、そんな寂しい顔をしている人が身近にいたら、精いっぱい愛を注いでください。
それが私は生きていることだと思います。…」
………………………
生きることは
愛すること
「欲」のない愛を、いつになったら注げるようになるのでしょうか。
なかなか光りが見えてきません。
「“恋愛”を仏教では“渇愛”といいます。
渇愛というのは〈中略〉きりもなく相手に求める愛です。〈中略〉「もっと愛して、もっと愛して」とねだる愛です。
この渇愛は、愛した瞬間から苦しくなるんですね。しかもこの世でいちばん苦しい。
それは愛のかたちをとっているけれども、とどのつまりは相手の人を愛しているのではなく、自己愛だからなのです。
自分がその人を好きになったのがうれしいから、気持ちがいいから愛するのです。
自己愛は、結局相手に報酬を期待します。見返りを求めます。
恋愛をして、自分が好きになったら相手にも自分を好きになってもらいたい。
自分が心の愛を与えたら返してほしい。
いや、利息を付けて返してほしい。
期待どおりにいけば、これが人生でいちばん楽しいことだと思いますけれども、
〈中略〉ほとんどの場合、期待しただけのものは返ってきません。
そうすると非常に腹が立つ。〈中略〉
とにかく、愛すると同時に苦しみが起こる。
つまり、そういう恋愛-渇愛というものは、自分のものにしようという独占欲ですからね。
独占欲が起こると苦しくなるんですね。
嫉妬が伴うからです。
自分以外に恋人の目が移るのが心配でたまらない。
愛したと同時に苦しみが生まれる。
そんな苦しいことしなければいいと思うかもしれないけれども、
しかし、だれも愛さない、だれにも愛されない人は、やっぱり生きている甲斐がないような気がいたします。
神戸の被災者の仮設住宅の中で自殺する人は、もう愛する人がなくなって、
愛してくれる人もないと思うからだと思うんです。
家があって、衣食が足りていても、心が寂しいと人は生き甲斐を見失います。
そういう悲しいことにならないように皆さん、人を愛してください。
愛されるより愛する人になりましょう。
自分にだけじゃなく、そんな寂しい顔をしている人が身近にいたら、精いっぱい愛を注いでください。
それが私は生きていることだと思います。…」
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生きることは
愛すること
「欲」のない愛を、いつになったら注げるようになるのでしょうか。
なかなか光りが見えてきません。