ビーンの不定期日記

その日の事や思ったことを…

 「思いつき
   いかげん日記」

【父の戦争体験⑭】

2020-10-23 02:07:56 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験⑭】

父と一緒にテレビを見ていたときだった。
勝新太郎主演の「兵隊やくざ」だったかどうか記憶は定かでないが兎に角そのような兵隊物語の映画を観ていた。 
例によって上官が部下の兵隊を虐めて殴るシーンがあった。
「貴様、上官の俺の命令が聞けんのか!」
「根性を叩き直してやる!」
てな感じで殴る、蹴る。

それを見ていた父は呟くように言った。
「こんなことがあったのかなー」
「俺のところではこんなことはなかったけどなー」
父の顔は悲しそうな顔をしていた。

映画なので物語を面白くする為の極端な演技はつきものだ。何も実際のことを描いている訳ではないのに、と私は思ったが、真面目に映画を見ていた父にとってはそうは受け取れなかったようだ。
自分が長年暮らしてきた軍隊生活が悪いイメージで描かれているのが何ともやるせなかったのだろう。
そんなことがあって、以後私は父の前ではテレビで戦争の映画はなるだけ見ないように意識するようになった。


【父の戦争体験⑬】

2020-10-20 02:21:39 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験⑬】

私が中学生頃。
家で何気なくテレビを見ていた。たまたま競馬中継の番組だった。テレビ画面はパドックを映していた。レース前に馬を見せる場所だ。父がやって来てその画面を暫く見ていると、言った。
「この馬、いい馬だなー」
私は父に尋ねた。
「いい馬とか見て分かるの?」
父「軍隊にいたとき馬の世話をしていたことがあるんだ」
間もなくレースがスタートした。
父の言ってた馬は2着でゴールした。
私はビックリした。
予想紙やテレビの解説者の話など一切関係なくただ馬を見ただけだったのに。

ギャンブルはやらない父だったが一度だけ競馬場に行ったことがあると話をしてくれた。私の長兄が4~5歳の頃、昭和27~28年頃。
父は小さかった兄を連れて初めて競馬場に行った。ところが子供とはぐれてしまった。慌てて付近を探していると場内放送が聞こえてきた。
「迷子のお知らせをします。○○ちゃんと言うお子さんが迷子になっています。」
父はそれを聞くと急いで案内所に走った。
そして案内所で係員に「貴男は子供を放っておいてまで競馬をやりたいのか!」とこっぴどく叱られたそうだ。
その日、家に帰ってくると幼い兄は母にこう言った。「今日はお馬さんの運動会を見に行ったよ」と。

初めて行った競馬場は父には苦い想い出となった。

【父の戦争体験⑫】

2020-10-15 22:46:21 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験⑫】

夜営をしていた時の話。
「不思議なこともあるんだよなー」と言いながら話してくれた。

父ともう一人とで見張りをしていた。
40~50m先で突然炎のようなものが光った。見張りの父達は慌てた。
この光が敵に分かってしまったら自分達の場所が知れて攻撃されてしまう。父達は急いで火?を消しに行った。ところが炎が見えた場所近くに行ったのだがそれらしき燃えているものは見当たらない。2人でおかしいな?と言いながら陣地に戻った。戻ってきて見張りを続けているとさっきと同じ場所でまた炎のようなものが光った。父達はまた慌てて消しに行った。しかしまたもや燃えているようなものは何もなかった。そのようなことが何回か続いたそうだ。

腐敗した生物から出る燐が燃えて光るという話を聞いたことがある。
戦場では人も動物もたくさん死ぬ。
父が見たものはそんな炎だったのかもしれない。


【父の戦争体験⑪】

2020-10-13 02:58:07 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験⑪】

戦友会。
私が20歳頃(昭和50年頃)、父に誘われて戦友会の打ち合わせに同席したことがある。父が60歳くらいだったと思う。
打ち合わせの場所は東京、椿山荘。
父が言うには由緒あるホテルで戦前は皇族方が利用されたそうだ。
子供を打ち合わせの席に同席させるなど常識的には考えられないことだと思うが、父は成人した末息子を戦友達に見せたかったのか、または私に豪華な椿山荘を一度見せたかったのか、そんなところではなかっただろうか。実際、私は後にも先にも椿山荘へ行ったのはその時の一度きりだ。

打ち合わせには10名くらい来ていた。
戦友会は毎年行われており、毎回違った県で開かれていた。だから幹事は持ち回りで開催する県の人達がその年の戦友会の準備をすることになっていた。
その年は東京が開催地で、それで東京に住む戦友達が集まって打ち合わせをしたのだった。
予算とか、お土産をどうするかとか、戦友会が終わった次の日に東京の観光案内を企画しようか等、話していたことを覚えている。
落ち着いた和室の部屋で食事をしながら皆和やかな雰囲気で話をしていた。
ひとりだけ声が大きくてとても賑やかな人がいた。そして対照的に物静かな人もいた。
兵隊の時の階級が誰が上で誰が下か私の知るところではなかったが、威勢がよくて父を呼び捨てにしていた人は恐らく父の上官だろうなと思った。

家に帰ってから父が教えてくれた。
賑やかだった人は八百屋をしていて父の部下だった。物静かな人は中隊長で1番偉い人だった。
戦争が終わって皆それぞれの戦後の人生を歩んでいるんだなと二十歳そこそこの私はそう感じた。

それから数年後、父が私に言った。
「椿山荘に行ったとき声のデカい賑やかな人がいたでしょ。あの人、自殺したよ」
私はそれを聞いてとてもショックだった。
70近くまで生きてきて、それも戦争の中を生き抜いてきた命なのに何で自ら命を絶たなければならなかったんだろう?
折角ここまで生きてきたのに・・・

とても信じられなかった。

戦争のない時代でも生きていくのは大変だ。


【父の戦争体験⑩】

2020-10-04 00:03:05 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験⑩】

これも母から聞いた話。
母は大正10年生まれ。病弱の父親に代わってわずかばかりの土地で農業をしていた。
まだ父と結婚する前の終戦直後の話。
母は近所の人からあることを聞いた。神田の市場に野菜を持って行けばいい値段で野菜が売れると。
「そんなに野菜が売れるなら直ぐにでも神田市場に行こう」と決めた。
母は家で採れた胡瓜や茄子等たくさんリヤカーに積んで市場に向かった。
市場まで3時間は有に掛かる。若い女一人でリヤカーを引き続けるのは辛かった。しかし野菜が売れれば生活の足しになると頑張って引いた。
ようやく市場に着いた。市場に来るのは初めてだ。どのように売ったらいいのか分からない。そこで近くの人に聞いてみた。
「野菜を市場で売ろうと思って来たのですが、どうしたらいいでしょうか?」
その人は言った。
「あんた、権利を持っていないと市場では売れないよ」とつっけんどんに言われてしまった。
母はそれを聞くとビックリし、そしてとても落胆した。リヤカーを何時間も引いてきた身体からみるみるうちに力が抜けていった。

母は無知だった。それも当然だった。
小学校は4年生までしか行かせてもらえなかった。そして幼い妹弟達の子守をし奉公にも出された。学も無く世間にも無知だった。
だから市場に行けば誰でも持ってきた野菜を売れると思ったのだ。
野菜を積んだままのリヤカーを力なく引いてまた何時間もかけて家に帰るしかなかった。

私は母が不満を言っているのを見たことが無い。地味な人で黙々と農作業をする姿が私が子供の頃の母の印象だ。
私は60半ばの歳になったが、今母のことを思うと母は偉い人だったと思う。