ビーンの不定期日記

その日の事や思ったことを…

 「思いつき
   いかげん日記」

お彼岸の墓参り

2015-09-23 16:05:58 | 般若心経
「お彼岸」は日本だけの行事だそうです。 

友達が教えてくれました。
他の仏教国では、お彼岸にお墓参りをする風習はないそうです。

どうして、日本だけお彼岸に墓参りをするのか? 
大方、次のような理由からのようです。

日本には古くから神道があります。
自然を神様として崇める信仰です。
神社やお宮です。

神の対象は太陽であったり、山であったりします。 
ですから、古代から日本人は太陽を崇めていました。

一方、仏教は悟りの地「彼岸」が東の彼方にあり、現世(此岸しがん)はそれと真逆の西に位置するとしていました。

そして日本ではこの神道と仏教の教えが一体となりました。

つまり神である太陽が真東から真西に沈む日、昼と夜の長さが同じになる特別の日を崇め神社にお参りをしました。
それに伴い、仏教のおしえである彼岸と此岸が一番近づくことからお墓にも、神社にお参りにいく風習同様に、お参りするようになったようです。

今日は私の住む調布から、私の生家の江戸川区へ墓参りに行きました。

最初に母の老人ホームへ行きました。

その後、亡くなった次兄の家へ行きました。

次に私の家へ。

それから、2年前に亡くなった従兄弟の家へ。 

そして、実家へ。

最後に墓に行きました。

次兄の家へ行った時は、持っていったウイスキーの瓶のフタを開けて、次兄の遺影にグラスにそれを注ぐと、私も遺影の前にアグラをかいて次兄と一杯やってきました。

兄が生きていたら一杯では済まなかったでしょうに。

"もうこりた"

2014-06-18 07:00:44 | 般若心経
「寂聴あおぞら説法Ⅲ」瀬戸内寂聴著(光文社)
より、抜粋です。

………………………………

(中尊寺の)千田貫主様の法話は、私よりもっともっとお上手。
そのご本の中に「二本の手」という、とてもいいお話があります。

ー 人間には、手が2本あります。では、何をするために2本の手があるか、ということを千田貫主様がお話ししていらっしゃいます。

1本は自分のことをいろいろするためにある、自分のための手。
もう1本の手は、人のために尽くすためにある手。
ただ便利だから2本付いているのではないと……。

ああ、なるほどと思いました。
天台宗は「忘己利他」ー自分のことを忘れて、人のために尽くす、という伝教大師様の教えが根本です。

仏教は漢字がむつかしいでしょう。「忘己利他」を「2本ある手を両方とも自分のために使うのではなく、片方の手では人のために尽くしましょう」と教えられると、とてもわかりやすいですね。ー

……………………………………


「忘己利他」は「もう、懲りた」と憶えると忘れないかもしれませんね(笑)

同じような教えで

「自利利他(じりりた)」

というものもあります。
これは人のために尽くしたり、人の幸せを願うことが自分の幸せになる、という教えです。
諺の
「情けは人(他人)のためならず」
も同じ意味ですね。
「情け(親切)」は人の為に行うのではなく、自分の(幸せの)為に他人に親切にするのだ、という意です。

これと正反対の言葉もありますね。

「ガリガリ亡者」

他人の迷惑など考えず、自分の欲望のままに生きている人。
「ガリガリ」は「我利我利」と書きます。
これも仏教の教えからきている言葉なのですね。




ブッダの言葉

2014-04-11 19:48:14 | 般若心経
「愚かな人は、自分と他人を比較して悔しがります。
賢者は、自分と他人を比較して励みにします。」

「いいことがいっぱい起こる!ブッダの言葉」植西聡著:三笠書房より



何かの本に「人間の不幸は他人と自分を比べるようになったことから始まった」
と書いてあったのを思い出しました。

そうは言っても、他人と比べてしまう自分を、むやみに責める必要はありません。
比べた後の感情に責任を持つことが重要なのです。
いつでも心を前向きに、そして平常心にしていられるかが、大切なのです。

他人と比べる時、あの人は自分より上か(賢いか、裕福か、優れているか・・etc)、下か?を判断基準にしてしまいます。
でも、"比べる"とは上下を判断するのではなくて、"自分との違い"を発見することです。
違いを知って、その人を認めてあげることです。
自分と違うその人の一面を発見することです。
他人の一面を発見し、それを認めることで、自分が進歩するのです。

般若心経の唱え方

2014-04-10 06:07:45 | 般若心経
私が般若心経の本を読んでいくうちに、般若心経のお経を唱えてみたくなりました。

本には読み方は書いてありましたが、実際にお経を唱えてみようとすると節回しがわかりません。

ネットで2~3、お坊さんが唱える般若心経を聞いて唱え方をおぼえました。
お経を唱えるときは独特な音の伸ばし方をしたり、文章の区切り方が違います。

般若心経のお経を唱えてみたいという人に少しでも参考になればと思い、掲載しました。



  -般若心経-


 摩訶般若波羅密多心経。
まか はんにゃーはーらーみーたーしんぎょうー
 
 觀自在菩薩。
かんじーざいぼーさー
 行深般若波羅密多時。
ぎょうしんはんにゃーはーらーみたじー
 照見五蘊皆空。
しょうけんごーうんかいくー
 度一切苦厄。
どーいっさいくーやーくー

 舎利子。
しゃーりしー
 色不異空。
しきふーいーくー
 空不異色。
くうふーいーしき
 色即是空。
しきそくぜーくー
 空即是色。
くうそくぜーしき
 受想行識。
じゅうそうぎょうしき
 亦復如是。
やくぶーにょうーぜー

 舎利子。
しゃーりーしー
 是諸法空相。
ぜしょほうくうそー
 不生不滅。
ふーしょうふーめつ
 不垢不浄。
ふーくーふーじょう
 不増不減。
ふーぞうふーめつ

 是故空中無色。
ぜーこくうちゅうむーしき
 無受想行識。
むーじゅうそうぎょうしき
 無眼耳鼻舌身意。
むーげんにーびーぜっしんに
 無色声香味触法。
むーしきしょうこうみーそくほー
 無限界乃至無意識界。
むーげんかいないしむーいしきーかい
 無無明。
むーむーみょう
 亦無無明尽。
やくむーむーみょうじん
 乃至無老死。
ないしーむーろーしー
 亦無老死尽。
やくむーろーしーじん
 無苦集滅道。
むーくーしゅうめつどー
 無智亦無得。
むーちーやくむーとく
 以無所得故。
いーむーしょーとくこー

 菩提薩捶。
ぼーだいさったー
 依般若波羅蜜多故。
えーはんにゃーはーらーみーたーこー
 心無罫礙。
しんむーけーげー
 無罫礙故。
むーけーげーこー
 無有恐怖。
むうくう
 遠離一切顛倒夢想。
おんりーいっさいてんどうーむーそー
 究竟涅槃。
くーぎょうーねーはん
 三世諸仏。
さんぜーしょーぶつ
 依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐 三菩提。故知般若波羅蜜多
えーはんにゃーはーらーみーたーこー
とくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだいこーちはんにゃーはーらーみーた

 是大神呪。
ぜーだいじんしゅ
 是大明呪。
ぜーだいみょーしゅ
 是無上呪。
ぜーむーじょうしゅ
 是無等等呪。
ぜーむーとうどうしゅ

 能除一切苦。真実不虚。故説般若波 羅蜜多呪。即説呪日。
のうじょーいっさいくしんじつぶーこーこーせつはんにゃーはーらーみーたしゅ そくせつしゅーわつ

 羯諦羯諦
ぎゃーてーぎゃーてー
 波羅羯諦
はーらーぎゃーてー
 波羅僧羯諦
はらそーぎゃーてー
 菩提薩婆訶
ぼーじそわかー

 般若心経。
はんにゃーしんぎょうー




よかったと思うこと

2014-03-14 08:49:51 | 般若心経
今の一人生活を始めて4年になります。
当初は職もなく毎日、近くの図書館に通いました。
瀬戸内寂聴さんの本はよく読みました。
お経を読むことは良い事、写経することはもっと良い事と書いてあったのが心に留まりました。

サラリーマン時代に書店で何気なく「般若心経」の本を買いましたが、読んでみて内容がイマイチ理解できず、と言うか読んでいて面白くなく般若心経の興味は薄れていました。

それが、今の一人暮らしをするようになって、人生の良い機会として、もう一度般若心経の本を読んで内容を理解したいと思いました。

般若心経のことを書いてあるいろいろな本を読みました。(一冊読んでも解らないことがたくさんあったからです)

わずか272文字の般若心経を覚えるのに2年かかってしまいました。
無職の時は毎日、写経しました。
そして枚数が溜まると近くのお寺に納めにいきました。

私は仏教徒ではありません。
今までの人生を反省し、これからの人生をどう生きて行ったらいいのか。
般若心経のお経は、生きていくうえでの道具として持っていても良いのではないかと思ったのです。

昨年11月、兄が亡くなりましたが、無宗教葬だったので、葬儀はお坊さんを呼ぶこともなく、勿論お祈りをすることもありませんでした。
私は兄の棺に般若心経の写経を入れました。
火葬場では般若心経を唱えました。

「同僚の死」のNさんは身内がなく、役所による火葬だけとなりましたが、私はNさんが荼毘に付された時間に部屋で合掌し般若心経を唱えました。

「同僚の死(2)」のMさんは家族が葬式をせず火葬だけとなりましたが、火葬の日にやはり私は合掌して般若心経を唱えました。


私が般若心経を知らなかったら、兄の場合もNさんもMさんにも、私はただ冥福を祈るだけで何も出来なかったと思います。

私の自己満足かもしれませんが、ただ黙祷して冥福を祈るだけよりも、お経を唱えられて良かったと思っています。


(勿論、私が般若心経ではなくて、聖書を読んでいたら、きっとお祈りと聖歌を歌っていたかもしれませんね?)